10.31
「トリックオアトリート」
道ゆく数人の子供にそう声をかけられるのももう何度目か。けたけたと笑いながら無遠慮に手を突き出してくるミイラに狼男、それから魔女。はいはいと苦笑いをして、普段は持ち歩かない鞄から菓子をいくつか鷲掴んで放るようにくれてやれば、きゃいきゃい騒いだまま礼も言わずに走っていく。
こんな日に外に出ることがそもそも、間違っている。姦しい人の群れで通りはごった返し、街頭も飾りつけられたランタンが揺れるばかりで心許ない。足元とか。それを撫でるように真冬さながらの冷たい風が通り抜けるし、空には月どころか星のひとつもないせいか、仮装する人間のなかになにかが混ざっていそうなんて、そんな馬鹿馬鹿しい予感を抱かせる。
別にこの祭典自体が疎ましいわけじゃない。気分によるがお祭り騒ぎは好きなほうである。ただ人混みが煩わしいとか歩きにくいとか、ちょっとコンビニに行くだけなのに物乞い遭遇率がすさまじいとか、そういう少々の窮屈にあくびが出るだけ。
それなのに、進行方向はガタガタと屈折を繰り返している。足が家に向かない。
今さっき買ったばかりのタバコに手をかける。一本取り出して咥えて、三度目でようやく点いたライターに替えどきかとぼんやり思う、息を吸って火を移し、肺まで入れた煙を吐き出した。
21mgのピース、こんなもの肺喫煙するタバコじゃない、バカなのかと何度言われたことだろう。早死にすると。それでも俺はこれをずっと吸っているし、今更他の銘柄なんて吸う気はしない。友人に勧められて他のものを数日吸ったことはあるが、どうしたってこの味と匂いが欲しくなって、やはりこれ以外はもう。
知らないひとになるのが嫌だった。変わっていくことが。
「トリックオアトリート」
目がひらく、
一度跳ねたきり呼吸も脈もとまって、喧騒がひとつも鼓膜をゆらさない。
後ろからかかったその声を、反芻する、首をひねって振り返る。
「あと、歩きタバコ。迷惑行為だぞ」
前髪だけがわずかに覗くほどフードを深くかぶった、男、お化けの仮装なのか体格すら分からないマントを羽織って、顔さえ見えない。知り合いではない、ような気がした、
けれどその、声は、いや、聞き間違えたろうか?
聞き間違えるだろうか?
「…持ってないよ、なんも」
自分の喉が震えたことにいっそ驚きすらあった。頭は真っ白でなにも、分からない、ただその奥のひとみが見たくてしかたなかった、ひとみの色を確認する必要がある自分に泣きたくてしかたなかった。
男の口元が弧をえがき、あぁ、わらっている、と思う。あのときみたく不敵なものなのか、あのときのように困ったものなのか、くちびるだけでは判別できない。
手を、伸ばした、
「じゃ、仕方ないな」
ふいと男は反転して俺に背を向ける。空を切ったこの左手は、いま、この男よりつめたいだろうか。そうであればいいのに。
部屋は散らかったまま。
仕事の書類もどこかへ消えた。
適当な軽口ばかりで生きている。
自炊はできるけれど面倒だからしたくない。
汚すぎると言われた書き置きは俺にだって読めないままだ。
あれだけ言われたタバコさえ銘柄もなにも変えてない。
なにも変えていないんだ。
なのにお前の声はどうして、記憶のものとわずかに食い違うんだ。
踵を返した男は、肩越しに俺を振り返って、まだわらっている。
「火、はやく消せっつの」
でも、その匂いで分かったよ。
呆然と指に挟まれたままだったタバコから、重力に負けた灰が落ちて風に散る。その冷たすぎる風に我に返って、喧騒のただなかへ引きずり落とされた。
嫌だ、まだなにも聞いてない、それなのに今更、声が出ない。だってこの声もこの声のまま男に届いているのかが、分からなくなった。
一歩踏み出した足を、
「引き留められるとな、向こうに戻れなくなるんだよ」
二歩目の軸にすることができなかった。
どう家に帰ってきたかを覚えていない。
ただ呆然と玄関に背を預け、ずり落ちて、項垂れる。思考は嫌味なほど鮮明に冴え、はっきりと現実味を帯びたこの感情だけが、あまりに大きく心臓を占めていた。
手で顔を覆う。抵抗する気力もないまま、ばかみたいにぼろぼろと泣き続ける。
記憶の底から響く鳴海の声に違いはない。
あれは鳴海じゃなかった。
あのとき泣いていたあれは。鳴海じゃなかった。だから俺もこうして、一人で泣いている。