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椎葉カオルは目薬がさせない

 カオルは目薬がさせない。
 なにを急に、と言われると困ってしまうのだが、とにもかくにもそうなのだ、これはそういう話なのだ。カオルは目薬がさせない。
 目にものを入れるということが苦手なのだ。あとなぜだか一回で目薬を眼球におとせない。よく瞼に落としては、手の甲でぐしぐしと拭っていしまっていた。やめろと言ってはいたのだが、結局、改善される見込みはないままだった。
 だからこれは必然なのかもしれないが、いくらなんでもどうなのかと、毎度俺ばかりが冷静に混乱して考え込んでいる。

「鳴海、目薬さして」

 読んでいた新聞の上にぐしゃりと横になって俺を見上げるそのひとみからは、相変わらずなにも考えてはいないことしか伺えない。決定事項をつきつけるような、およそ人にものを頼む態度ではないふてぶてしさに小さな溜息をこぼしながらも、その容器を受け取った。

 俺がやってしまうから彼も頼み続けるのだと、頭ではそう理解はしていても、彼からの頼みごとを断る、ということが、昔っからひどく苦手だった。
 だって俺は彼に助けられてばかりで、けれど相手は誰の助けも必要としない、強かで薄情な男であるのだ。だからこそだ、例えばそれがどんなに些細で馬鹿げた内容であったとして、それでも彼が頼ったのが俺であったのならば、たったそれだけの事実ひとつで、俺はなんでも叶えてやりたくなってしまう。あのカオルが誰かを頼りにすること自体が極端に少ないのだ、その上頼る先が俺であったことなんて、人生で一体何度しかなかったと思うか。これからだって、もう二度とはないかもしれない。

 ああ、しかし彼に目薬をさしてくれと頼まれるようになってから、もう二週間も経ってしまった。カオルの気まぐれによるこの奇妙な状況がこの先何度作られてしまうのかは、やはり彼しか知らないのである。

 容器に残った薬液は、もう半分もない。

 そういえば。

 ふと思い出した、自分では目薬もさせないだなんて言っていた彼のこと。俺の目の前でわざとらしく、自らの手で最後の一滴を見事眼球に落としてみせた彼に、二週間、俺を騙すためだけによくやったものだと、むしろ感心した。今では目薬をさしているところさえ見かけやしない。

 あれはなんだったのかと考える、けれど、当時の自分のほうがよほどに考えたことだろう。今更首を捻ったところで、分かるものも分かるまい。

 あれから、容器そのものすら見かけてはいなかった。きっと初めっから、薬をさす必要などないのだろう。それはとてもいいことだ、だけれど、

「鳴海」

 そう言って間抜けに開かれたきりのくち。俺の手には唐揚げ。

 つまりはそう。食わせろと彼は言っている。これはたしか、一週間ほど前から始まった。目薬の件からひとつき空いたか空いてないか、そんな頃にだ。

 相も変わらず、俺はそれを断れない。断ろうと思えばできるが、特に理由がない。人前であればみっともないとか行儀が悪いとかいくらでも言葉は出せるのだが、如何せんここは俺の自室で、彼がこうして強要してくるのもまた、決まって俺の自室だった。

 目薬でもさすがにどうなのかと思ったというに、いくらなんでも。俺のそういう顔を知らぬふりで受け流し、やる気のない目でいつまでもじっと待っている、俺に食事を与えられる瞬間を。雛鳥、なんて可愛いものであればまだよかったか。同い年の男にそう迫られる、苦痛まではいかないなんとも言えぬ居心地の悪さなど、どこの誰にも理解されないことだろう。こんな状況に陥る人間がこの世界にたった二人でもいてたまるものか、そんなふざけた世界ならとっくに引っくり返している。

「…お前さ」

「なに、早くしろよ」

「…メシくらい自分で食えば」

「あぁ、そーいうの一応思うんだな」

「思うに決まってンだろ!」

 ああ。すべて理解した。して、唐揚げごと箸を机に叩きつける。ちゃらちゃらと転がっていくのを視界の端に捉えながら、八つ当たりされた唐揚げはさぞ無念だったろうと祈る。恨まれるのは多分俺ではないけれども。

 こんなに性格の悪い、いや悪いというか。悪いに違いはないのだけれど、そんなふたつの字とみっつの音では収まりきらない他者への侮辱を湛えて生きる男に、どうして俺はあの六年、あんなにも焦がれたのだろう。頭を抱えても遅い、こういうものは大抵が、より相手に興味を割いているほうが負けなのだ、と、そう相場が決まっている。

 クソッタレ。そう思ったって本人を殴れもしない。証明は終わっている、足掻きは無様だ。

「どこまでやってくれんのかなーって最近思ってさあ、やっぱお前俺のこと好きだし、あとパーソナルスペースってやつ?狭いよな」

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