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 咳が出て、頭がぼんやりする。昨日カレンダーなんか見たせいだ、今年もやはり三月はきて、こんな世界にいても暦がある。熱というほどではないが、僅かに上がったままの体温が、じわじわと思考を蝕んでいた。

「貝殻で作ったアクセサリーを贈るんだと」

 世話になった人に。
 何をするでもなく、ただ俺の部屋で雑誌を広げておきながら窓の外を眺めていたカオルが言う。元の世界でもあったホワイトデーのようなイベントなのだろう、と俺は思って、興味がないと切り捨てるのも面倒くさく、聞こえなかったふりをした。寝返りをうって、彼に背を向ける。
 意外にも、カオルは話を続けた。

「恋人にはネックレス、友人にはブレスレット、家族にはアンクレット」

 雑誌を閉じる音がする。
 彼は換気するぞと言って、ベッドの奥にある窓の前まで来ると、一気に一番上まであげた。入り込んだ風からはもう春の匂いがして、ああ、頭痛がする。
 この匂いが苦手だ。

「ならお前には、何をやればいいんだろうな」

 そもそも世話になったなどとは思ってもいないくせ、窓を開けた彼はそのままベッドに腰をかけ、聞いていないことになっている俺の顔を覗きこんだ。知るか、そう言おうとしたけれど、吸い込んだ空気のぬるさが喉に貼り付いて、できなかった。顰めた顔を掛け布団に埋める。息だけで彼が笑った音がした。

 家族にはアンクレット。彼だって興味もないだろうこんなイベントの内容を覚えているのは、きっとそのためだ。
 静かな波の音が窓から入り込む。宿のそばにあったのは綺麗な海だった、俺たちが見て育った、工場ばかりが並ぶ灰色の水溜りと違う。それでもきっと俺たちは、彼は、そんな汚い海が恋しい。それを一緒に見た、あの日隣にいた少女に、会いたかったり、心配だったりしているのだろう。彼が少女のことを指して「家族だ」と言ったことは一度だってないのだが、

「俺はそーいうの苦手だからなあ、あいつらは喜んでやりそうだけど」

 ほら見たことか。

 カオルは言うほど不器用ではない。俺はそれを知っているけれど、それでも彼は頑なに「得意じゃない」と言い張るのだ。得意じゃないのは細々とした作業を継続すること、あるいはそれに集中することのほうであって、恐らくはその言葉を口にすることで、そういった面倒なことを避けている。昔にトランプで何度イカサマをされたか知れない。
 そうだ、そうやって幼い頃を共に過ごしていたって、俺と彼は家族じゃなければ、友人ですらもない。カオルは俺を知り合いと称するし、俺もそれに倣って彼を知り合いと呼ぶのに抵抗がないくらいには、やはり、そこまでの関係だ。他人に彼との関係をどう見られていたって構わないからなのだけれど。
 そもそも物を贈るだなんてお互い性に合っていないし、俺は物をもらっても喜べない、カオルに至っては三時間前後で一度失くす。最初からそんなイベントに便乗するつもりなど、互いにかけらも持ち合わせてはいないのだ。彼はまあ、知り合った女にそういった物を贈るかも、…しれないと少し思ったけれど、きっとしないだろう。形として残るものを贈りたがるタチではない、理由は大体、察しがつく。

 こんな細く拙い関係に名前をつけるつもりなんてないくせに、意地の悪いことを聞く男だ。すこしだけ、考えてしまった。彼が、彼へのこの好意に名前と役割を与えて発露させてくれたなら、俺はどんなに楽になったことだろう、なんて。
 愛になどさせてはくれないまま、一体何年経ったと思うか。

 そんな薄情な男が大切に抱えているもののもとへ、一日でも早く帰ることができたらいいのだけれど、今のところ、そんなものは目処すら立ってはいない。

「…寒いな」
「バカ、閉めねーぞ」

 やっとのことで鳴った声は弱く、主張ごと諸共に叩き伏せられた。

 彼は先ほど閉じたばかりの雑誌を手繰り寄せると、ベッドの上でまた開く。大して読みもしないというのに。春の風が柔い若苗色の髪を煽って、彼は鬱陶しげに、それを払った。

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