その心地のはなし
犬を見ていると、なんだか眠くなる。
カオルとこの犬を飼って、もう半年が経った。獣医曰く、恐らくもう2歳になるころだろうとのことで、それは人間に換算すると24歳にもなるのだという。そのときカオルはふざけて、「ゆきさん」なんて呼んでいた。いつつも歳が上なのだからと。
この犬は陽を浴びるのが好きだ。散歩のあとにカーテンを開けてやると、寝床に戻りかけていた足を中途半端に引っ込めてぱっと顔を上げ、ちゃかちゃかとフローリングに爪を鳴らしながら窓辺へ向かい、そこに寝そべる。音を聞いて、そろそろ爪を切ってやらなければ、と思う俺をよそに、犬は一日中、ほとんどそうして過ごしている。日光を浴びることで体内のリズムを整えているのだと何かで読んだ。気持ちよさそうに、笑うような表情で外を眺め、気がつけばそのまま寝ていて、またふと目をやった時には首を起こして景色を見て。その繰り返しだ。
それを見ていると、どうしてだか分からない、薄らとしたくせ確かな眠気が訪れる。
音もなく、あるのはふたつの呼吸ばかり。あとは茫々と広がっていく陽のあたたかさだけの空間で、眠る犬と、反射して光る舞った埃とを見ていると、あるときにふと、瞼が重いと気付くのだ。そのうちあくびまで出そうになる始末で、こんなことではだめだと、俺はいつも、目を擦って耐える。このあとに何があるわけではなくても、そうしている。
犬がきてからコーヒーの消費は増え、反対に、新聞を読む時間が減った。
カオルは仕事柄、昼間はほとんど家にいない。夜勤だって週に一度は必ずある。俺も午後と夜中はあけていることが多いけれど、陽を浴びてふかふかとするこの犬の真白い毛を、彼はあまり知らない。触ったここちをきっと彼なら俺に教えてくれるのだろうけれど、たったいま目の前に横たわっているそれを、なんとなく、俺ひとりではさわれないような気がした。手を、伸ばすことさえしていない。
写真でも撮ってやろうかと思って、それもやめる。彼がスマホを構えると、犬も意識を向けられていると気付いて自然体でいられないようだし、それに俺までそんなことをしては、彼になんて笑われるかくらいすぐ分かる。嫌、ではないけれど、癪だ。
この犬はカオルにひどく懐いている。彼は散歩も行くし、よく撫でて褒めるし、餌もおやつも与える。俺は未だに、犬に話しかけるのが下手だ。しつけをして、言うことを聞いたらきちんと褒めるけれど、そんなのはそこまでを含めてがしつけなのだと本で読んだからだし、彼みたいに優しくて高い声は出せない。犬は声の高さでも人間の感情を推し量るというから、俺のことを、いつも怒っているなんて風に思っているのかもしれない。
思うと余計、今更だと、手を伸ばしかけてはやめている。なぜだかそのたび、犬と目が合う。
彼の仕事を代わってやれたら。そんなばかみたいなまねを思うことも、ないと言ったら嘘になる。犬は、今日も寝ている。
俺といてもつまらないのではないか。そう思って、カオルがまた衝動で、よく考えもせずに買っていた犬用のボールを取り出そうと、箱を弄る。
犬は物音にはっとこちらを見上げて、まんまるくさせた茶色いひとみで、俺を射抜いた。犬のひとみを見ていたって、俺には人間の感情しか分からない。なんとなく意表を突かれたような思いで、犬と似たような顔で静止した。そのうち犬が尾をゆたゆた振りはじめたので、俺はどこか安心して、掴んだボールを箱から取り出す。その手にあるものを見るなり犬は足早に寄ってきて、少しだけ開いた口で呼吸をしながら、今度は忙しなく左右に尻尾を振った。
部屋の隅まで放る。犬がそれを追う。
カオルは遊び方なんか教えちゃいない。犬は追いついたボールを器用に前足で押さえ、それをしきりに噛むばかりだった。噛むのが楽しいのだろうか、よく分からないが、しばらくはそうさせた。けれど待てども犬はそうするばかりだったので、俺はおそるおそる、
「おいで」
ああ。みっともなく震えた。
けれどカオルによく言われるそれの意味を知っていた犬は、ボールを咥えたまま、大人しく俺のもとへ来る。そのままおすわりをして、いつものように褒めて撫でられるのを、待っている。
あの頃よりは、慣れた。頭をくしゃりと撫でてやると、犬は喜んで、たぶん、笑っている。奥に見える尻尾が揺れている。
笑うように引き上げられた口角にぽとりと落ちたボールを拾うと、今度は別の方向へ投げて、おいでと呼び戻して、撫でる。数回やれば犬は覚えて、言わなくても持ち帰ってくるようになった。
それを見て、えらいな、と、笑った声が聞こえて、自分で息を飲んだ。
いま俺は、どれほど間抜けな顔をしていたか。彼がいなくてよかった。
肩を数回揺すられ、目が覚める。ゆると瞼を持ち上げれば辺りはすっかり暗く、カーテンも開かれたまま、窓のそばに犬とふたりで横たわっていた。
犬の毛は昼間よりだいぶ落ち着いて見えるが、それでもまだ陽の温もりをそこに蓄えていることだろう。
「ぐっすり寝てたな、珍しい」
この時間はいつも、仮眠くらいしかしないのに。
帰宅して俺を起こした彼がそう笑う。あの日、半年前のあのときからもうずっと、彼の笑顔はこんなふうに、目尻が緩んだままだ。
カオルの帰りに喜んで、犬は寝たまま腹を開く。後ろ足の間で尻尾がぱたぱた振られている。彼はすっかり慣れた「ただいま」を口にしながら、その犬の、ふさふさの真白い毛を。掻き混ぜて撫でて、楽しげに何度も名前を呼んでいる。
昔は挨拶なんて、ひとつもできない男であったのに。
俺の頭はまだぼんやりしている。遊んで満足し窓辺に戻った犬を見て、やはり眠くなったことは覚えているけれど。手のひらにも胸元にも、この犬のすぎるくらの温もりが、まだずっと残って、眠い。
そうしてなにとはなく、犬を撫でる、仕事用の手袋の外された彼の左手を見て、どんなここちがしているのだろうか、何度も撫でるくらいならきっと、気に入っているには違いないと、茫漠と思った。
日は落ちてしまった。昼間ならもっと暖かく、ふかふかとしているかもしれない。彼は、俺はいつになったら、そのここちを教えあえるだろう。
「この賽を投げたのはお前だよ」
突然放たれた柔い声、しかしそうなることが当たり前だったように、俺の耳は、彼の言葉を聞いた。見上げれば、いつもの眩しい牡丹色と、視線がかち合う。
意味を理解しようにも頭が回らず、首を傾げるでも聞き返すでもなく、いまだぬるい頭でぼんやりと、笑うその色をただみていた。
「神なんかじゃなくてな」
まばたくばかりの俺の頭を、犬を撫でていたその手で、一番上からうなじまでを一度、すべらかに撫でおろしてから、寝ぼける俺の目元を薄くなぞっていった。子供のような体温だ、と彼に揶揄られるのは、あながち間違いでもないのだろう。いつも通りのはずの彼の手をより冷たく感じるのは、きっと寝起きで自分が火照っているからだ。
「起ーきろっつの、メシ!」
「うわっ」
おだやかに笑っていたくせ、突然彼が俺の髪をぐしゃぐしゃと乱し大げさにじゃれてきたものだから、騒ぎ出した俺たちに犬がひとつあくびして、寝床へ避難していった。その、まだ眠たげな背中と足取りを、カオルの腕の向こうに見る。
俺をもみくちゃにする彼は子供みたいに笑っている。ほんとうの子供だった頃だって、こんなふうには笑っていなかったのに。それは俺と犬がさせているのだと、知って、どうにも心臓が軋んで、泣きたかった。聞きたかった。
俺は今日までうまくやれたか。そんな、彼にも分からないこと。