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寒冷前線

 秋はそれなりに好きだ。
 なんてったって暑くない、これに尽きる。先日までの内臓から溶かされるような暴力的なまでの気温、湿度はなりを潜め、アルファルトはなにも照り返さないし木枯らしまでもが吹いている。寒すぎるのもどうかと思うがどうやら人より寒さに疎いようで、俺にとってこのくらいが清々しくてちょうどいいのだ。気分的にも、何かと動き回るこの仕事をするうえでも。

 とはいかないのが麻木鳴海という男である。
 秋の夜明け前、涼しげに鳴く虫を睨みつけるように歩くこの男は、寒さというのが滅法苦手だ。絞まってない?というくらいに厚手のマフラーをぐるぐるに巻いて、夏の間に焼けた肌をひとつも露出することなく重いコートに手を突っ込み、親でも殺されたのかというくらい不機嫌な顔で殺気をばらまき歩くくせ、やたらと大人しい。寒いから話しかけるな、うるさいくらい気配がそう言っている。
 それものはず、殺されたのだ。親に。

 ではこいつが元気に活動できる時期といったら。しばらく考え、あぁこの間までは比較的賑やかだった気がするな、と思い出し、そうか、夏くらいのものだ。こいつが適応できるのは。
 一度、近くの梅の木をすべて伐採してきてやろうかと提案したことがある。あんまりにも熱が引かずに、息も絶え絶えだったから。けれどもくるしげに「やめてくれ」と言われた、それはそれで地雷だったらしい。よくわからない。

 

 昔に二人で派手に遊びすぎて壊した遊具がそのまんま放置されている公園、特に用はないらしいそれを通り過ぎながら、鳴海は手を突っ込んでいたコートから小さな箱を取り出した。パーラメントのロング、なんてクソみたいに不味い煙。これを吸うやつは、1,2mgのオモチャを咥えているやつの次に頭がおかしいと思っている。
 防寒用の手袋をするのは美学に反するらしいのだが、それもよく分からない。分からないが素手でタバコとライターを取り出して一本咥えると、点けた火を風から守るように手で覆ってタバコに移す。ライターをさっさとポケットに戻して、かわいそうに寒さで震える手でタバコを挟んでいる。
 けれども気持ちはよく分かる。こんなに涼しくて空気のうまい日は、タバコに限るというものだ。俺もとポケットを漁ったところで、しまった、もしかしてこれライターなくしたな。
 指先で形をたどる、これは財布、これはタバコ、いや、でもコンビニまでならいらないだろうと置いてきた携帯の横にそういえば、ライターがあったような気がしないでもない。ならいいか、帰れば分かる。けれど実はこの公園、鳴海の家とコンビニの中間地点にあるわけではない。
 とりあえず。今すぐ吸いたいので一本取り出し指に挟み、

「なぁるみ、火ぃちょーだい」

 これは間違いなく怒られるのだろうな、と思ったので、精一杯媚びるような声で懇願しながらタバコを揺らす。それでもそいつの顔はみるみる赤くなり、あぁ、だめだこれ。

「早く言え、今しまったンだろうが!」

 ありがたい怒声。
 家まですぐだろ待てないのか、今コンビニに売ってたろ、そもそも物を管理する気がないのが悪い。ぶつくさ言っているがライターを貸す気は満々であるらしい、その中で手がごそごそ動いている。眉を吊り上げて財布とタバコ、それからあるかもしれないサバイバルナイフを掻き分けてライターを探っているのが、なんだかひどく、

「これでいーよ」

 騙しやすそうだったから。
 右手の首をついと掴んで引き寄せる、焼ける紙の先端にタバコを軽く押し付けて息を吸う。音もなく広がっていく焼け跡を確認して手を離した。

 ああ、うまい。やっぱりタバコはこいつに限る。

「…肺まで入れるな、ンな重いやつ」

 がさごそと忙しなかった鳴海の手は静かになって、呆れたように肩を落とし俺から顔を逸らす。もう一度口をつけたタバコを持つ手はかわいそうに、震えていた。

 寒いのはそれなりに好きだ。暑いよりよっぽどマシであることに違いはないし、なによりこの頼りないほど攻撃的な男が唯一、「さみしい」の自覚を自分に許せる季節だからである。

「カタいこと言うなって、さっさと帰ろーぜ」

 寒いのは嫌いだ。
 なぜって決まっている、手がかじかんでは刃物の扱いが鈍るし、体だって硬くなる。暗殺という仕事をするにおいて、いいことなんてひとつもない。とはいえ環境のせいにした失敗など許されないし、そんなもの関係なく失敗を犯す予定なんてないのだが。

 

 そういう気概のないのがこの椎葉カオルという男である。
 寒いも暑いも文句を垂れる、寒いことには鈍感だからまだいいが、一度認識すると寒い寒いとやかましい。夏なんて目もあてられない、常に溶けてだらしがなく何をするにも動作がのろい、ていうかそもそも何もしない。扇風機の前に根をはって、斬りかかりでもしなければ動かないのだ。
 ではカオルが活力に満ちている時期、といったら。考えてすぐにやめた、馬鹿馬鹿しすぎる。それこそ環境になど左右されない男だ、そんな瞬間なんて一秒たりともあるものか。

 寒いのは嫌い、それでも、春よりはマシだ。
 彼女がそれを括った日の梅の匂い、甘く重い風、花を曇らす雨まで降れば完璧だ。思考が途切れ途切れになって、追って自分のそれをも括りたくなる衝動が、毎日続く。

 昔に二人で派手に遊びすぎて壊した遊具がそのままに放置されている、家から遠く特段用事もない公園を通り過ぎながら、一服しようとポケットをまさぐる。あまりの寒さに手を出すことに躊躇して、けれどなんとなく口寂しくて、結局一本取り出した。俺は彼と違って中毒なんかじゃないから日に二桁も吸わないが、だからこそ一度の「吸いたい」を気付かなかったことにするのが億劫だ。欲求が些細すぎるゆえの弊害。
 はやく暑くなればいい。温かいまどろみが喉の内側に貼りつく季節なんて、すっ飛ばして。

 さっさと煙草に火を点けてライターをしまう。彼に一本くれてやるたび、まずいまずいと文句を言われるパーラメント。俺はこれが結構好きだ、それこそ他では吸えない味がする。フィルターが特殊なのだろうといつかにかかりつけのヤブ医に聞かれて、見れば確かに、そこには空洞ができていた。
 ああ、寒い、これでまだ十月だなど信じられない。手がかじかむ、耳も削げ落ちてしまいそうだ。そう思いながら煙草を吸って吐いたとき、あろうことか横の男が、

「なぁるみ、火ぃちょーだい」

 なんて、媚びた声でへつらってくるものだから一発ブン殴ってやろうと思って、寒くてやめて。頭突こうにもこれだけ間があいては避けられてしまうから、ああ、もう本当にこいつは、どうしようもない。

「早く言え、今しまったンだろうが!」

 バカなのだ、バカ。
 どれが廃屋でどれが民家か区別もつかないような夜明け前の住宅街、憚らずに声を荒げた。甘えたって威嚇したってなにも変わりはしないこと、分かって選んでいるのだ、この男は。より腹が立つほうを。

 家まですぐだろ待てないのか、今コンビニに売ってたろ、そもそも物を管理する気がないのが悪い。いくら説教を続けたってこの暖簾にはダメージなんか通らないが、たったいま手をぬくいそこへ戻したばかりなのだ、文句の五つや六つくらい出る。
 八つほど普段の生活態度を指摘したところで気は済んできたし、二桁上げたってライターは出てこなければ彼の生活習慣の乱れだって直りはしない。諦めて煙草の箱や財布、サバイバルナイフを避けてライターを探る。

 

 甘えたって威嚇したって、なにも変わりはしないのに。カオルがどうであったって、俺はお前がすきなのに。
 それはあの日にカオルの目が夕焼けを映していたから、足が雨を踏んだから、笑って俺に手を振ったから。それだけ。
 それだけの、なんにも持っちゃいない俺のこと、

「これでいーよ」

 彼は煙草を持つ俺の手首をくいと掴んで引き寄せる、焼ける紙に自身の煙草を押し付けて酸素を取り込む。口を離してから短く煙を吸って、二酸化炭素もろとも吐き出した。

「…肺まで入れるな、ンな重いやつ」

 何にもできやしないのだから、あまやかさなくたっていいのに。
 それでも彼の煙草を持つ手は、俺の髪をくしゃりと一度掻き混ぜて、

「カタいこと言うなって、さっさと帰ろーぜ」

 ふっと離れていく。

 堪えきれずに立ち止まった。ひとりでは無理だと思った。
 温かいまどろみが喉の内側に貼りつく季節は、どれだけ血を吐き願ったとして、すっ飛ばしたりできないから。それでも立ち止まりたい俺は、カオルが連れ帰ってくれなければ、冬の寒空に取り残されてしまう。

「ハニーは帰りたくねーの?」

俺たちの愛の巣、なーんて。
 いつものとおりに薄く笑う彼は、なにも言えず首を振った俺を見て、呆れたように腕を掴んで引っ張った。

 


 秋は、嫌いじゃない。
 彼の機嫌の悪い日が減る。出勤したくないと駄々をこねる時間が短縮される。寒くなるほど家に帰れなくなり遠回りをする俺を、迎えにくることが増える。
 あの冬の日、出て行けと背中を突き飛ばした彼女の手の感触より、呆れながら俺を家に引っ張り込む彼の背中を見た記憶のほうが、増えていく。

 俺を引っ張るカオルのつめたい手のひらが、好きだからだ。

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