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天性の弱虫

「なあ、もう終わりにしよう」
 

 鳴海がひどく暗い声で落としたその言葉に、なにが、と返すことしかできなかった。本当は、分かっている、のだけれど、そうやって誤魔化せば、なんでもないと取り下げさせることができるから。そんなことをして、今までにもう二度、逃がすことで逃げてきた。
 分からないわけはないのだ、こいつの望む言葉が。けれども口にしたくはなかった。単純な、プライドの問題だ。互いの負けず嫌いを、互いが一番知っている。
 

「恋人の真似事は、やめにしよう」
 

 ああ、もう、逃げてはくれないのか。お前が俺から手をはなすなら、二人を繋ぐものはなにもなくなるというのに。

 大して揺れてもいない鳴海の声、けれどそれは繕ったものだと知っている。それでも、繋ぎとめようと縋るのは、俺の役目じゃない。いいわけはないくせこいつは頷くのだと分かっていて、俺はさよならを口にする。
 

「お前がもういいなら」


 

 鳴海はつくづく俺に甘い。当たり前だ、まだ俺のことが好きでたまらないのだから。これからだってきっとそれはやめられないんだろう。
 住むところがなくなるのは困るだろうからと言って、鳴海が実家に帰り、部屋には俺だけが残された。俺の実家は家族ごと燃えたので確かにありがたくはあるのだが、いざとなれば女の家を転々とすることだってできたのに。そのうえひと月で仕事を見つけろと金まで置いていった。
 けれどそれは優しさじゃない。鳴海の、いつでも待っているという、未練の言葉だ。追い出すのではなく、自分で築いた城に俺を残すことで、いつか再び受け入れてくれる日を、待つことにしただけだ。待つくらいなら初めから離れなければいいものを。自分の首を絞めるだけなのに、それでもわざわざ離れるということは、俺になにかを求めているからだ。それがなにかなんてことは、それこそ初めから分かっているけれど。答えが分かりきっている、と知りながらそんな課題をおいていなくなるなんて、一周回ってむしろ難題だ。あんまりにも馬鹿げてる。

 あいつのいなくなった狭い部屋は、がらんとして隙間ばかりだ。手が滑って砂糖を入れすぎてしまったコーヒーを啜る。ほんとうに、甘い。すぎるくらいに。


 

 あれから何日か経って、そう、経ったのだけれど、どれだけ寝てどれだけ起きて、起きていた時間になにをしていたかはあまり覚えていない。

 最適解は既に手元にあるのだが、どう発露させればいいかが分からなくなっていた。余計な意識を介入させるとそれはもれなく鳴海に気付かれてしまうし、かといって、あのとき「お前がもういいなら」と言ってしまった時点で、もう今更、なにも考えずなんてのは不可能だ。あの言葉自体が余計な意識そのものだったのに、いまから建て前を取り払うなんてのは、やっぱりプライドが許さない。

 狡猾な男だ。本当にそう思う。俺からたった一言を引き出したいだけなのだから、それに繋がるたった一言を直接言えばいいものを。回りくどい、のに、分かりやすい。面倒だと思う、鬱陶しいと、そう思っている、はずなのだけれど、それでもやっぱり鳴海のいない空間は、広すぎて、酸素が多すぎて、それからあまりにも寒い。あいつの高い体温、が、いつまでも帰ってこないのは、それは少しばかり、困らないこともなくはない。
 そう思って、連夜、女の家を渡り歩いたりもしてみた。けれどもやっぱり、どれもこれも鳴海の温度とは違うのか、ちっとも温まりはしなかった。代替品が見つからない。俺はいよいよ、鳴海にその一言を、言ってやらなければならなくなってしまったようだった。そんなのは、白旗を振るのとおんなじことなのだけれど。


 

 あいつのバイト先の裏、出てくるであろう染まって傷んだ髪を待つ。今更と分かってはいるのだが、一体どんな顔をしろと言うのだろう。鳴海は俺に甘いけれど、甘やかされた俺がどんな反応をするかまでは、大して考えていないのだ。今後はもっと、俺が振る舞いに困らない接し方をしてほしいものなのだが、果たしてそれがあいつにきちんと伝わるかは、正直微妙なところではある。俺が本当になんにも考えず過ごしていると思っているのだ、あの男は。強く否定はできないが、それでもあいつが思っているほど頭を空っぽにして生きているわけじゃない、けれど鳴海のように思考に埋もれているわけでもないから、極端なあいつに正しく伝えられる気はしない。そうして結局面倒だと、そのままにしてしまうのだ。そしてその結果がこれだ。

 燻んだ群青のそれを、真正面から射抜けるものか、こんなときに。近付いてくる鳴海の足音を拾いながら、俺は未だに顔を上げられないでいた。
 

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