#1 04/09
少女は今日も夜を駆ける。
夜もすっかり更けたころ、明るい茶髪と黒のブレザーを風になびかせながら、一人の少女が街頭の下に立っていた。手には小さな手帳を鉛筆を持っていて、独り言を漏らしながらなにか書き込んでいる。背は平均より少しばかり高く、スカートから伸びる脚はすらりと細い。鍛えられたというより、単純にどこにも無駄な肉のついていないような、しなやかな体つきをしていた。澄んだ深い緑の目は丸く、無邪気なままの色で手帳に書かれていく文字を追っている。
「んー…そういえば、そろそろお米を買わなきゃいけないのよね、市街地まで行くのが面倒で困るわ」
「お嬢さん」
ふと、そこに声が降った。からからと遊ぶような、低くはない幼さを残した男性の声である。少女は素直に声に応じて、ほぼ反射的に顔をあげた。
立っていたのは、フードを目深にかぶった、青い髪の男だった。青い髪はかなり長いのか、持て余すように肩にかかっていて、纏っているパーカーはぶかぶかしているものの、筋肉質ではないことが少女には見て取れた。前髪から覗く灰の瞳はひどく挑発的である。
その瞳とカチリと目が合ったとき、しまった、と少女は思った。
「…なにかしら」
応えれば、にやりと持ち上がる口角。
その挑発的な目には覚えがある。何かしらに快楽を見出し、ゆえにその行為を繰り返してきた犯罪者たちのそれであった。少女にはそれが気配で分かる。厄介だ、と思い、どうやり過ごそうかと一瞬思案したが、この手の輩は快楽への執着が強いため、振り払うのは難しい。眉を顰めそうになるのを抑える。
少女が慣れているのには理由があった。
「俺と遊んでよ」
案の定、愉快そうな声と、焦がれる瞳。
男が嬉しそうに目を細めた瞬間、少女の隣で爆発が起こった。
(――…!)
異能だ。
少女はすぐさまそう思った。爆風に髪を掻き乱されながら、男の挙動を注意深く観察する。
何かしら合図があるはずだ、何かしら前触れがあるはずだ。それは男の仕草でもいいし、或いは時間の間隔がパターン化されているなどの規則でもいい。どこかしらに、なんの異能であるかを見抜く穴があるはずであると、少女は考えた。
異能。それは世間に恐れられ疎まれ、迫害される能力。6歳までに本人があるとき「気付く」のだとされるちから。非科学的で超常な現象。
意識や感情と深く結びついた、呪われた才能である。
「…不躾ね」
「キミこそ、余裕だね」
少女は後ろへひとつ跳ね、男と距離をとる。目は変わらず男へ向けたまま、全身の感覚を研ぎ澄ませ次の一撃に備えた。
男は依然、楽しそうに笑っているばかりである。
「久々に楽しめそうだ!」
男は甲高く、けらけら笑いながらそう言った。その合間にも近くのビルでは絶え間なく爆発が続いている。少女は爆風と爆音に目を細めながら、なお慎重に男の仕草ひとつひとつすべてを見落とさないよう、集中が途切れないよう気を張り詰め続けた。
途端、男がすっと、少女の斜め下へ視線を流した。それを少女は見逃さなかった。
本能的に視線の反対側へ飛び退いた瞬間、少女がさきほどまで立っていたその地面で爆発が起きた。風に体が巻き込まれビル壁に打ち付けられる。痛みに呻いた。
しかし少女は気付く。
この爆発は空気中で前触れなく起こっているものではない。目線が鍵となっている、そう仮定した。規則もトリガーもなく意思のみで爆発を起こしたわけではない、媒体と目線が必要であることに気がついたのだ。
分かれば、話は早い。
痛みに震え、うまく立ち上がれずにいる膝に鞭を打つ。視線さえ追えれば直撃は免れるはずであり、ダメージを受けようと致命傷には至らない。ならば勝機はある、そして逃げる隙がある。少女は回天の機会を伺っていた。
男の目がまた動く。少女が肩を預けているビルを見遣った。それを確認した瞬間少女は顔を顰めて、ほぼ同時に足元から膨らんだ影が、少女をまるまる飲み込んでしまった。一拍遅れてすぐ隣のビル壁が爆破され、足元に穴をあけられた廃ビルは大きく傾き出す。
影がしゅるしゅると少女の足元へ帰っていく。中から再び現れた少女は無傷であった。それを見た男はひゅうと口笛を吹き、またも楽しげに目を細める。
しかし少女は男に目もくれず、傾くビルの中へ入り込んで姿を消した。
「…あれ、逃げられたかな?」
一転、きょとんとしたあと、視界から外れた獲物に興味はないらしい男は、まぁいいやと残して、何事もなかったかのように足をくるりと反転させる。去り際、風に煽られ脱げたフードから顔を出したのは、真っ青で右へ伸びる左右非対称の髪。それを気ままに揺らしながら、男は闇夜へ消えていった。
傾くビルの一角から、窓を突き破って、茶髪の少女が勢いよく飛び出してきた。とん、と身軽に着地して、きょろきょろあたりを見渡すと、男の姿がないことに安堵し、少し大袈裟な溜息を零す。
「危なかったわねぇ…職業柄あまり人前で使いたくなかったのだけど、仕方ないかしら」
足早にその場をあとにしながら、右手を頬に添え少女は呟く。と同時に足元の影が鋭く伸びて円錐状に尖り、物質としてそこに存在することを主張するかのように、月明かりを受け鈍く光った。
少女の名は渚ナツキ。影を操る異能を持つ情報屋である。