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#12 --/--

 母親、がいた。それは、気が違ったと言われるような母親、だった。

 

 麻木鳴海。母から貰った、鳴るという字を持つ名前。千という字を継がなかった名前。俺はその名前が嫌いだ、鳴る字が、"喋る"ことが嫌いであったのだ。それは人を傷付け、物を破壊することしかできない力だと、彼女が恐怖したゆえだ。

 彼女は、異能がそれはそれは嫌いだった。生まれつきに偏見が強く、更に父を異能犯罪者に殺害された一件をきっかけに、それは軽蔑から憎悪へ変わってしまったらしい。けれどもその身に宿した子供は、俺は、5歳の時に異能を発現させてしまった。彼女のなかの必死に保ってきた糸が切れたのは、それを目の当たりにしてしまった瞬間だった。

 言霊を操る異能。それは口にしたことが現実となるものだった。喉さえ鳴れば思ったものが思った通り、理を無視して俺の手の元に現れる。意志さえあれば言うだけで、物質は法則ではなく俺の言葉に従い、動く、壊れる、崩れる。
 俺の声は、響く凶器だった。

 最初に異能を使ったのは5つのとき。俺が熱を出して、しかし薬を飲みたくないと、みっともなく駄々をこねた時だった。いやだと拒んだ声と意思に異能が反応して、彼女が差し出していたコップが砕けた。
 なぜ、どうして、私が、あなたが。しかし幼く世界のしくみなど知るよしもなかった俺には、彼女が叫び散らすその理由を、正しく汲み取ることがなかった。それでも以降、声を発するたび母が狂うのを何度もその目で見るうちに、喋ることをやめるようになっていったのは、自然なことだと言えるだろう。彼女がなにを嫌悪し、そしてなぜ俺を怒鳴り散らすのか、それらを正しく知ることができなくとも、彼女が俺を拒みだす条件くらいは覚えられるのだから。喋らなければ、母は悲しみに叫んだりしない。俺はそう認識した。
 そうしていつか、俺が異能だったためか、狂った母のせいか、その両方か。気が付けば父は姿を消していた。麻木という家に嫁いだ先で、孕んだ子が異能だったために捨てられた母は、"赤間千佳"へと戻ったのだった。それでも俺は"麻木"であり続けることを望んだ。母にとって、異能を持つ自分と血の繋がりがある、という、その揺るがぬ事実こそが、なによりも毒になり彼女を追い詰めているのだろうと、そういう結論に辿りついたからだ。
 俺は口を閉じて、話すことをしなくなった。彼女は俺と目が合うと、なぜとばかり繰り返し、声を出すと「気味が悪い」と吐き捨てた。そんな日が続いて、勿論彼女をなるべく刺激しないようにと、視界に入らないよう努めた。けれども彼女は日に日に衰弱していき、当然育児を放棄されていた俺も発育が悪く、共倒れ寸前という状態まで縺れこんでいった。

 その異常に気付き、俺を彼女から引き離すという判断を下したのは、彼女の弟である赤間千秋、その人だった。初めてその顔を見たのは、母に千秋諸共家から追い出された真冬、誕生日を迎えて九つになったばかりの頃だった。

「僕はね、君のお母さんの弟なんだ。千佳さんは少し疲れていて、休憩が必要なだけだから、少し休んだらまた、一緒に暮らせるさ」

 車を走らせ引き取りに来た千秋が言ったその言葉を、俺は未だに覚えている。きっとそんな日は二度と来ないだろうに、これは気を遣っているのか阿呆なのかお人好しなのか、と、ただぼんやりと思っただけで、なんの返事もしなかったことも。そしてやはり、千秋が言ったような「また一緒に暮らせる日」、なんてものはこなかったし、ついでに言うならば千秋はただのお人好しだった。それも、拍子抜けするくらいの。
 俺はその頃、いくら甥だとはいえ、一度も会ったことのない異能を引き取るだなど、叔父は相当におかしな人なのだろう、と予想がつく程度の歳にはなっていた。その歳で随分ひねているものだ、と千秋には苦く笑われたけれど、今になってみれば、その言葉の真意はどこにあったのだろうと、そんな風に思う。
 異能を持っていれば良くも悪くも諦観が根付く。それもちょうど、あのくらいの年頃にだ。世界を知れば自ずとそうなるのだと、千秋ならよく知っているはずなのだが。

 千秋は異能に興味と好意を持っていて、ゆえに異能についてを色々と研究しているらしかった。だから自分のことも嫌な顔ひとつせず引き取ってくれたのだけれど、それは果たして甥に対する愛情なのかは、当時の自分にはよく分からなかった。

「息子がいるんだ、君にとっては従兄弟だね」

 帰りというべきか、行きというべきか。どちらなのだろうと考えていた。とにかく千秋の車の助手席に乗せられ、随分と荒いその運転に死ぬと思うような車酔いをしたのを覚えている。それから大して聞いていないふりをしてはいたが、彼が話しかけてくれたことも、その内容も。

「鳴海くん、きっと姉さんを、君のお母さんのことを嫌いにならないでやってほしいんだ。僕よりも姉さんの感覚の方が、確かに一般的なそれに近いかもしれないけれど、でもね、彼女はちょっと行きすぎている節がある。君のことが嫌いなんじゃないはずだよ、本当に嫌いなのは異能であるはずなんだ。ねえ、鳴海くん、鳴るという字、姉さんは自分で付けたんだ。なら愛せて然るべきと思わないかい?整理する時間があれば、恨むべきは君ではなく異能なんだってこと、絶対に受け入れられるさ」

 やはり返事は、しなかった。できなかった。

 そうだ。彼女は異能を恨んで憎んで生きてきた。
 実質的には九年にすら満たない時間だっただろうが、それでも隣で、いや、隣と言えるほど近くに寄れなくても、それでも見ていれば分かることだった。彼女が恨んでいるのは異能であると、彼女が自分を拒絶するのは自分に異能があるからだと。そんなことはとっくに知れていた。だからこそ、正しく母の感覚を認識していたからこそ、少しばかりの期待さえも、この胸に芽吹くはずがなかったのだ。たとえば彼女の気が狂って、また狂って一周回ったとしたって、絶対に自分のことだけは受け入れない。確信していた。
 知っていたのだ。憎むべき異能を宿した人間そのものすらも、彼女にとっては等しく、憎悪の対象であることを。

 だから、だからこそ。覚えたその感情は、後悔だった。
 知りながら、限界がくるまで彼女のそばを離れられなかったことへの、後悔。遅かったのか、ああ、遅かったのだろう、驚きでもなく嘆きでもない、ただ底から湧き上がったのは、腑に落ちる後悔と、臓器を確かに満たしていく罪悪感だった。

 10歳の、春だ。忘れもしないその日、3月24日。

「…鳴海くん、落ち着いて聞いてほしい、君が悪いわけじゃない。姉さんが、君の、お母さんが、一昨日の朝、」

亡くなっていた。
 彼女は孤独だった。ゆえに発見が遅れたのだろう、26日の昼、千秋は俺にそう告げた。

 実際に彼女の死因を千秋から聞いたのは、その更に数日後だった。
 彼は言いたくなさそうに俯いて、ひたすらに言葉を濁した。あの人はただお人好しなのだ。千秋の家にいた数年間、捨て猫が溢れていなかった時期がなかったくらいには、どうしようもなく、底抜けの。だから彼は言いたくないと首を振り続けた、母の死因を、口にはしたくないと。俺に言って聞かせたくはないと。けれど当時の俺は一度で言い当ててしまったから、渋々ながら、千秋は状況の詳細を、俺に教えざるを得なくなった。そして、それを聞いた俺はただ黙って、納得した。

 彼女を、赤間千佳を殺したのは、紛れもなく自分だった。彼女が首を吊るに至った原因そのものが俺であることは、どうしようにも疑えやしない事実である。異能という脅威をこの世に産み落としたこと、きっと彼女はそれを嘆きながら、縄を括ったのだろう。

 だから今日も、謝りながら眠るのだ。だから今年も、きっと来てほしくなどないだろうに、そこに、彼女の眠る墓に、足を運んでしまうのだ。
 毎年、ただ一言、声もなく彼女に謝るために。
 

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