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#13 05/16

 じゃあ、いってきます。

 そう言って軽く微笑んでみせ、その場でくるりとひと回りまでしてくれたものだから、俺は腹を抱えて笑う。似っ合わないねー、ヘンなの。そう一頻り笑ったあと、いってらっしゃい、と無理やりに付け足したけれど、どうにもぎこちなくなったのは、だって、仕方ないだろう。その言葉の意味を俺がどこまで知っているのか、少女がそれを知らずにいるか、知らないふりを続けてくれることを願うばかりだ。

 それからもう、ふた月が経った。

「カガミ、カガミ」
「はいはい、なにさ」

 上神の調達したパンを歯で千切るように食べながら、それの妹、てこてこと俺の周辺を動き回るナギに視線はやらず、しかし律儀に返事は返してやる。その様子を見て、上神は小さく安堵の息を漏らしていた。ナギに手をあげたことはないが、突然の思いつきでなにをしだすか分からない、そう認識させる振る舞いをしてきたつもりではある。今日の俺は機嫌がいいように見えていることだろう。
 上神には危機感が足りていない。俺がナギを殺すという、ごく自然に想像できるはずの未来を、いまだ具体的に思い描けずにいるらしい。俺が人を殺して遊ぶのをもう何度もその目で見ているのに、人質であるからかそれともナギが懐いたからか、妹だけは例外だとでも思っているようで、俺がナギに近寄ったって、ひとつも緊張する素振りは見せない。俺に慈悲や情、倫理観の芽生えを期待しているのだ。そしてそれを絵空事と判断する能力に欠けている。

 ナギは木製の小さな櫛を手にしていた。幼い少女のてのひらに収まるような、丸みを帯びたコンパクトなもの。そうして左手で俺の髪を持ち上げ、梳いてあげる、と言い放った。

「動かないでね!ぶちってなっちゃったら痛いんだよ」
「知ってるよー、気が済んだら起こしてね」

 胡座をかく俺の後ろで膝を立て、鼻歌なんかしだすくらいに上機嫌だ。オレはオレで、感情の起伏を装うためにされるがままになることにして、転寝でもしようかと目を閉じる。事実そんなに悪い気はしない。妹との関係を密にして懐かせるほど、不意打ちで殺すことが容易くなる。それを仄めかすことで、上神を制御しやすくなるからだ。そんな枷など関係なく、上神はきっと自分を見捨てられない。そうと知ってはいても、ここに上下関係があるということを、上神には改めて認識してもらわなければ困る。
 キミの意思でここにいるのではない、キミはオレが支配しているのだ、と。そういう主張がしたかった。

 けれどこの目論見もやはり失敗に終わるだろうかと、溜め息を吐きたい気分にもなる。見せ付けられた上神本人から、やはり緊張が感じられないのだ。
 和やかな午後だと錯覚でもしているのか、地図を広げ、そこに今まで使った脱出経路、少女から伝えられる警察の動きなどを書き込みながら、いつもより穏やかな表情ですらあった。上神の機嫌がいいことをオレは面白く思わない、という認識を、普段何とか持ち合わせている様子ではあるのだが、よほどに頭が悪い、オレが本気で眠ろうとしているから今は自分のことなど意識の外にある、とでも思っているらしい。穏やかさが伝わらないよう気を張り詰めることもせず、どころか動かし方を忘れ去るよう努めた表情筋は、放っておいても動くことはないだろうと油断している。


 す、と薄く目を開いて、上神と目線をカチリと合わせる。なにも言えずただぼけっとオレを見る上神に、悪戯を思いついた子供のように笑ってみせて、それからちょいちょいと、右手で小さく手招きした。

「ん」
「なんだ?四季」
「いーから。ねーナギちゃん、も一個あるでしょ」
「兄さんにもやってくれるの?いいよ、特別に貸してあげる!」

 招かれ、招かれ、胡座をかくオレの前へ。


 下でくくった髪を解くと、ろくに手入れもされていないせいでパサついているビビットピンクのそれが、ふわりと風に広がる。オレの考えなどまったく読めていないのか、困惑はしているようである。ぼさっとしている上神をさっさと座らせると、すぐにそのちいさな櫛で髪を梳いてやる。乱雑に、櫛が引っかかるたびぐいぐいと遠慮なく髪を引っ張っているのでそれなりには痛いだろうに、上神がうつらと船を漕ぎだすまで、さほど時間はかからなかった。
 兄さんはね、こうされるの好きなの。へぇ、いいこと聞いた。そんな会話をしながらも、飼うなら聡明な人間にすべきだったろうかと、少しばかり後悔していたくらいだった。

 

(これは、脅しか…牽制、か、あそびか)

 波に飲まれていく頭で考える。けれど考えたところで分かるはずもなく、頭は使えば使うほど休息を求めた。そういえば人使いの荒い誰かさんのせいで、最近まともに眠れていなかった気がする。けれども自分はそれに慣れた。甘んじた。


 俺が四季に馴染むことで、二人の関係が穏やかになっている。それはきっとどうにかしている形だと、分かっている、分かっていながらやめられそうになかった。気まぐれなこの殺人鬼に、誰かが優しさを教えて倫理を説かなければならないと、そう思う気持ちが変えられない。そうしてそれはきっと、穏やかな環境において芽生えるもの、優しい人間関係によって構築されるものであるはずなのだ。だから俺の選ぶ選択はただひとつしかなかった。鏡見四季を慈しむこと、それ以外に、彼を救う手立てが見つからない。
 彼の人生を知らない。知らないのに思いばかり馳せて、四季を正しく育てられなかった世界の狂いを、どうしようもなく認識してしまう。

 流れる静かなこの空気に、瞼は重くなるばかりだ。かくんと、落ちる。そう思った瞬間、すぐ後ろから、四季の声がした。

「…ほんとダメなやつ」

 四季、と、問い返した、と思ったけれど、眠くてできなかったかもしれない。次に目を覚ましたのはもう夜で、六時間も眠り通していた、というか放ったらかされていたらしい。床で眠っていたぶん体があちこち痛んだが、逆に冴えきった頭で、ああ、もうダメだと、なにがともなく思った。

 あの日出て行ったあの少女がいつか帰ってくるころ、自分はどうなっているのだろうか。

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