#14 05/20
赤間がばたばたと荷物をまとめて出て行ったけれど、結局はドアの向こうで麻木と鉢合わせたらしい、挨拶を交わしている声が聞こえてきた。
麻木に対し過剰な怯えを抱いている赤間は、殴り書きで始末書を済ませ、奴との接触を避けるべく慌しくオフィスから去っていったものの、麻木の出社がいつもより数分早かったようで、結局その目論見は失敗に終わったらしい。その話し声が途絶え、数秒でまたそのドアは開く。誰が来たのかなんて分かっているから、目もくれずに報告書にボールペンを走らせていると、案の定、麻木のほうから声がかかった。
「ルイ、お前それさっさと出せよな、あと五分だぞ」
「期限を守ればいつでもいいはずだ、それより顔が近い、寄るな」
「そうつれねェこと言うなって、ルイちゃん」
「貴様…」
「あーもーここで始めるのやめてくださいよ~備品壊れるじゃないスか」
にたり、その男は笑って俺を呼ぶ。吐き気を感じながら右手でレイピアを抜きかけたが、第三者の声により、それは中断させられる。
橘アキだ。麻木の注意が逸れ、「なんだアキ、今日はこっちか」、と言いながらふっと体を離し自身の机に向かっていったので、苛立ちを感じながらも、渋々剣を収めた。
麻木は機械に弱い。橘に、このパソコンが壊れたらどれだけのデータが流出するだの、修理にはあれやそれやこれといったパーツをどこそこから買わなければだの、復旧にかかる数日の遅れは数ヶ月に響く致命傷だのと、そういったことを延々迫るように言われたすえ、結局は理解するのを諦めたらしく、橘がノートパソコンを持ってオフィスで作業を始めた時だけは、暴れなくなった。馬鹿で良かったと心底思う。
本社の18階、暗殺部隊専用オフィス。そこに俺と、情報管理担当の橘アキ、一応の代表を担っている麻木鳴海が揃うことは、そう珍しくもないことだ。
俺はレイのぶんもまとめて午前中に報告書を書いてしまいたいし、この時間は徹夜明けの息抜き、とやらで場所を変え作業をする橘が唯一作業室から出てくる時間帯であり、それから麻木の出社時間でもある。たまたまそういう行動パターンゆえ集まってしまうというだけで、仲がいいだなんてわけはない。どちらかといえば険悪だろう、気まぐれな麻木の一言がなければ会話ひとつもない。へらへら笑って後輩面している橘の腹の底も、何となくではあるが伺える。男に興味のない俺にでも分かる程度のそれならば、そこの麻木にはまるごと筒抜けであるに違いない。奴の前で世界は偽れない。
それらを踏まえれば、やはり平和か険悪かと聞かれたら、険悪のほうがこの状況には正しくあてはまるのだろうと思う。けれど静かな空間で報告書をまとめられるこの時間帯を、俺自身は良く思っている。麻木がそこにいることさえ除けば。
先ほどのように麻木が俺に絡んでくるのは、奴が俺の潔癖症を知っているがゆえだ。俺は男に触れられたり、性的な目で見られたりということに対し、吐き気を催すほどの嫌悪を抱く。それを初対面で見抜いた麻木は、以後わざとああやって距離を詰めてはからかうのだ。特別な理由などない、ただ麻木がそういう男であるだけだ。人の嫌がることを進んでやりたがる幼稚な人間であるのだ、愚かしい。しょうもないことだとは思うが、長時間そうされるのでは耐え切れず抜刀して、俺の反応に奴は喜んで暴れて、殺し合いになって。今日までその繰り返しだ。互いに後先を考える能力が中途半端に備わっているため、過去に半壊させたのは他所の廃ビルくらいだが、そもそもそういう規模での争いを起こしている時点で、後先を考えられているか、と言われると、正直怪しいところではあるのだが。麻木が母の怨念とやらに首を絞められ大人しくなる時期ももう過ぎたから、これからまた喧しくなることだろう。
決着がつく日もあれば、今日のように開始前にストップがかかる時もあるものの、互いに体のあちこちに穴を開けた状態で、長塚という千秋の旧友、異能である闇医者が開く診療所に揃って雪崩れ込んだことも数知れずだ。麻木は長塚に、笑って「こんなモン日常のコミュニケーションだ、なァルイ」などとほざくが、冗談じゃない、俺は心底あの男に死んでほしいと願っている。
「ルイ、あと三分」
「…」
「あとアキ、そこのドアノブ壊れたから備品取り寄せといてくれ」
「あんたらが足で開けるからっスよ足で」
「千夏に言え、あいつは加減ってのを知らねンだ」
はぁ、と溜息をつく。品性のかけらもない男共の集まりだ、ここは。唯一所作を身につけているのは千秋ぐらいのものだろう。しかしそれに育てられておきながらそれらが身につかない、というのも不思議な話だと、赤間や麻木のことを思う。
こんな日はさっさとナツキのところへでも行って、彼女の淹れる紅茶をゆったり飲みながら、穏やかに紡がれる世間話に耳を傾けるに限るだろう。書き終えた二枚の報告書を何も言わず麻木の机へ置き、誰を労うでもなく部屋をあとにした。かけられる言葉も当然なく、響くのはキーボードを軽快に叩く音と、麻木がカチリとボールペンをノックした音だけ。
静かな場所は好きだが、麻木がいる時点で、なるべく立ち寄りたくはないところになってしまった。たまには顔を見せてくれと、千秋にそう言われているのだが。
もう五月も半ばだ。晴れていて日の高い時間帯になると、彼女の家まで歩くのにもしっとりと汗ばむ季節である。あの情報屋の事務所に風鈴が飾られるのはいつごろになるだろうか、そんなことを考えながら歩く。遠く、恐らくはスラムで響いているであろう爆音も、9年もここで過ごせばすっかり耳に馴染んだものだ。市街地からスラムへ近づくほどちりちりと肌を焼く、殺気混じった有象無象の気配すらも。
こんななんでもない日常は、きっとナツキの好むところで、であれば今日もまた、彼女は機嫌よく俺を迎えるのだろう。赤間と吉川の二人が喧しく乗り込んでこないことを密かに願いながら、また一歩、安穏とした日常へ向かって足を進めた。