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#17 05/30

 ぐい、一歩踏み出せば、露骨に不快そうな顔をしてみせる。それが面白くて好きだった。麻木鳴海と違うのは、自分はなにも知らないだけ、誰にでもこうなだけという体で距離を詰めているということだけだ。

 

「ルイさーん」

 

 名前を呼ばれることさえ吐き気を呼びかねない、といった表情をしてくれるこの先輩は、なかなか遊び甲斐がある。

 

 このルイという人は、暖かいものが苦手らしい。その異能は炎を操るというのにおかしな話だと思った。
 気分で時々ひとつだけ砂糖を落とすコーヒーは温くなるまで放置、コンビニで買った弁当の類も規定の半分ほどしか温めないし、きちんと記述通り温めなければならないチルド系には手を出さない、飲料は冬でもとにかく冷たいものを求めるし、まあ早い話極端な猫舌なのだ。じゃあそれはつまり、幸せってものが苦手なんじゃないか。橘はそう思った。

 

「千秋さんから差し入れっすよ」
「…、ああ」

 

 千秋さん。この名前はまるで魔法の呪文のようだと思う。ここに来て何度そう感じただろうか。彼の名前を出せば、拒まれるはずだったそのスティックのインスタントコーヒーも、一拍おいて、少しだけ顔を歪められはするが、しかしゆっくりと受け入れる手は伸ばされる。自分も拾われた側だから分からなくはないが、どうにもここの人間は、千秋さんという人の好意にあんまりにも弱い、弱すぎる。呆れて笑ってしまうほど。

 

 話を戻すと、ルイはきっと幸せが苦手な人なのだ。黒瀬がそうだったからよく分かる。彼女もよく、自分に手を握られることを、反射的に拒んだ。他者の温もりに慣れていないこと、それが冷めるのが怖いこと。申し訳なさそうに打ち明けてくれたあの表情を、きっとずっと忘れられない。寂しそうで、頼りなくて、今すぐにでも消え入りそうだった。
 自分は今すぐ、彼女のもとへ帰らなければならない。紆余曲折あって指名手配されている身であること、仕事がなかなか画面の前を離れられない内容であることが重なって、彼女、黒瀬あやねを迎えに行くという本懐を遂げられずにいる。それがどうしても歯痒かった。

 

 中学の頃から付き合っていた黒瀬とは、所謂恋人という関係である。彼女は精神面が脆く、ひとりでは生きていけない少女だった。
 はじまりは彼女の手首に刻まれた傷痕を見てしまったこと。正直な話、それはそれは引いて、関わりたくねえななんて思ったものだった。けれど以来、彼女から家庭のことに関する相談を持ちかけられるようになり、いつも適当なことを言ってあしらっていたのだが、そのうちに妙に懐かれてしまったのだ。厄介だと思いながらその日も何度目かの相談を聞いて、別れ際、彼女は自分に「アキくんがいてくれてよかった」と言った。
 その細まったひとみが、柔らかな頬が、穏やかな声が、それに紡がれた言葉が。途端にひどく、いとおしく思えた。そんなことを、今まで誰かが自分に伝えたことなんて。
 単純だと自分で分かってはいる、けれど誰にも心を明かすことなく生きてきた自分に、どこまでもその胸のうちを吐いて信頼を示してくれた彼女を、自分以外の誰かに渡すことも、誰かが自分より彼女の力になってしまうことも許せないと、そのときに分かってしまったのだ。お互い言葉にすることはなかったが、手を繋いだり、唇を合わせたり、そういった営みをしたりもした。幸せだったのだ。それらは自分の好奇心のせいで泡と消えてしまったのだけれど。

 

 

 だからこんな所で、いつまでも燻っているわけにもいかない。異能でもないのに家族に疎まれている彼女の心を休ませてやれるのは自分だけで、また自分が本当に安心できるのも彼女の隣だけ。ぐっと右手を握り込む。身の安全のためと乗り込んだ組織だが、今となっては気まぐれで牙を剥くこともふらりと離脱することもできやしない。例え一時であれ情報の中枢を握った自分が消えたとなれば、彼らは総力をあげて自分を殺しにくることだろう。ただ無理矢理作った仕事の合間、それを縫って市街へ足を向けることしかできない日々に、焦りだけが募ってとまらない。
 だからこれは、この組織に属する偉大な先輩たちとの戯れは。その間の暇潰し、憂さ晴らし、八つ当たり、なんて言われたっていい。とにかくそんなようなものだし、否定もできないことだ。

 

「…貴様は」

 

 え、と、不意をつかれて耳を傾けた。
 ルイにこちらから話しかけることは何度かあっても、彼が自ら自分、どころか男に会話を持ち掛けることなどほぼ無い。珍しい、なにを言われるのだろうという好奇心で、僅かに胸が高鳴った。不愉快そうな顔をしてくれれば、なおよし。けれど振り向いた先、ルイの顔は前髪に隠れ、見えない。

 

「長いこと、ここにいない方がいいだろうな」

 

 はい?自然とそんな声が出た。今のは流石に間が抜けすぎていたかと思い直すも、出てしまった声は戻らない。ただ続きを促すように首を傾げながら、先ほどの言葉を頭の中で繰り返す。
 長いこといない方がいい?そんなのはこちらの台詞だ。さっさとおさらばできるんなら、とっくにそうしている。千秋は自分の身柄の保証を約束したし、その約束が破られたことは今のところないから、ただもう一度黒瀬に会うために、仕方なくこんなところで労働に勤しんでいるだけなわけで。じゃあ解放してくれと言ったとして、してくれるものか。

 

「溺れるなよ、ここの人間は大体が、千秋の首を最優先で守るということを覚えておけ」
「はあ、…なんですかそれ。俺だって拾われた身で、千秋サンを狙うつもりはこれっぽっちも」
「あの阿呆は」

 

 珍しくも、今日はよく喋る日らしい。言葉を遮られたことに多少なり不満を感じながらも、ただ大人しく耳を傾ける。
 それは機嫌がよかったのかもしれないし、ただ更に話を遮る気分ではなかっただけかもしれないし、聞かなければならないとどこかで感じたからなのかもしれない。

 

「…あの出来損ないの阿呆は、出来損ないで駄目でどうしようもない傲慢だがな、だが目だけは貴様より幾分マシらしい」

 

 幾分、だが。

 

 この人が阿呆呼ばわりするのなんて、更にそこに出来損ないまで付属したら、もう麻木鳴海、ただその一人のことでしかない。
 かっと自分でも驚くほど一瞬で頭に血が昇り、らしくもなく絶句してしまった。その間に男はいつも通りの優雅な足取りでもってオフィスをあとにする。
 頭が熱い。ああだめだ、これじゃあ、自分があの人に劣っていることを自覚して、その上で見下しているなんて不名誉な認識を、肯定しているようなものではないか。思ったところで後の祭だ。もう弁解の余地などない。

 

「…そりゃあね、敵うだなんて思ってねえよ、…でも」

 

 まったく勝てないひとだとも思っていない。
 あの男の底が知れないことなんて分かっている。馬鹿なふりをしているのか、はたまた本当の馬鹿が賢いつもりでいるだけなのか、それすら区別がついていない。確かに隙なんてひとつもない、けれどあの男も人間だ。人間でいることをやめられない、弱い生き物なのだ。いつか綻びを見せる日を、いつだって待っている。彼への下克上さえ成し遂げられれば、組織は自分のものとなる。そうさえすればそれだけで、黒瀬をいつだって迎えに行けるのに。

 

 少しだけ冷静になって、ああ彼が部屋を出てくれて助かったと、少しだけ思った。そんなことを言おうものなら、あの赤間千秋の首を守るための組織に解れなど許さないと、その場で斬り捨てられていたことだろう。ルイが言ったのはそういうことだ。結局こっちの世界じゃ物理的な力がものを言う。
 さみしい、と、彼女のことを思い出していた。
 

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