#23 06/12
嘘でしょう?赤間はボールペンを取り落とした。
「嘘じゃねェよ」
麻木は冷たく言った。こんな何の意味もない、つまらない嘘を吐くわけがない。椎葉カオルが帰ってきた。たったそれだけのことだ。
「…勘弁してくださいよ、」
赤間は取り落としたボールペンを拾うでもなく、その手で頭を掻き混ぜた。想像するだけで嫌気がさす、疲弊する。椎葉カオル、そのひとのことが、赤間はひどく嫌いだった。だってどうしようにも性格が悪すぎる。どうやったって相容れないと強く思っていた。
しかし一方で、それが帰ってくるまでの麻木といえば、抜け殻だった。魂の抜けた、けれど頭だけ鮮明に働く機械のような。横暴で、奔放で、粗暴な役を演じ続けることを、たとえ椎葉が消えようとも、決して数ミリのズレすら許さず保ち続けた。そういうことを無茶で可能にしてしまう、不器用な男なのだ。誰かに望まれなければかたちを保てない人だと、そういうだけの人間なのだが、かたちを望まないくせそばにいることを許す椎葉が、そういう存在がないなかでもその生き方を続けられたのは、みっともなさを許せない麻木の完璧主義と、やはり、望まれたかたちを保たなければここにもいられなくなると、そういう、椎葉がいないからこその焦りがあったからだった。
ところで赤間がそれに、椎葉カオルに初めて遭遇したのは、6歳のときだった。出会ったことが間違いだったと、本人は確信している。
一目惚れだった。
切れ長のひとみ、それを長く縁取る睫。若苗色の髪は柔らかそうに揺れていて、いつも緩やかな笑みを浮かべるその口で、あの麻木と軽口を言い合っている。あんな細く白い美形が、あんな暴君と言葉で渡り合うさま。それにひどく驚いて、椎葉をとても遠い存在のように感じたことを覚えている。
ともかく一目惚れだったのだ。赤間が同性愛者となった、もしくはそうであることに気付いたのは、間違いなく椎葉カオルが原因だった。同性愛者であることに思うところはないが、椎葉と出会ってしまったことは、ひどく後悔している。
「…生きてたんですね」
「ああ」
俺も死んだと思ってた。麻木は言う。だって約束を違って3年半になる。6年も姿を見せないどころか文ひとつ寄越さなかったのだ。そう思ったって不思議なことじゃない。けれど帰ってきた。生きていた。それが赤間にとってはあまりにも信じたくない事柄で、このひとが見た幻覚なのではないかなんて、正直そういうことにしてしまいたいほどのことだった。
「あいつ今は、なにを」
「さあな、聞いてない」
「…なにを話したんですか?」
「ファミレスで飯食っただけだ」
ああ、あんたたちらしいな。赤間は静かにそう思って、その部屋をあとにした。今の麻木はきっと意識がどこか遠くへ向いてしまっている、これ以上話すことはなにもない。
赤間は人の感情にひどく鈍感だ。麻木と違って、人の思考や感情を読み取ることに長けていない。正しく赤間の血を濃くひいているからこそ、赤間はどうしようもなくそうなのだった。
だからあの日、ババを引いてしまった。
椎葉というひとのことを、その男の性分を。赤間はなにも知らないままで、好きになってしまったのである。
「椎葉さん、」
「はは、何だそれ、呼び捨てでいいって」
「…椎葉、」
「うん」
そういって男は柔く笑った。今にして思えばなんてやつだと顔を顰めたくなるような、人を見下した薄い笑み。
椎葉と出会ったのは6歳のとき。その男もまだ9歳だった。けれどずいぶん大人に見えたものだった。振舞いや表情が麻木や双子とは全然違っていて、なんだか特別なひとのように思わせた。初めて麻木が椎葉を家に連れてきたその日から、鳴海くんに友達がと喜ぶ父を尻目に、赤間は彼がずっと好きで、いつだって目で追っていた。きっとそれが間違いだったのだろう。
彼はよく赤間を遊びに誘った。といっても麻木の部屋でゲームをするだけだ。お茶とちょっとした菓子、コントローラーを用意して、3人で夜になっても遊ぶ、ただそれだけ。けれど純粋に楽しい空間だった。そのときだけは麻木になにを命令されても怖くなかったのを覚えている。茶のおかわりを持ってこいだとか、そういうのは椎葉のためにもなるものだったから、客をもてなすのは最年少の自分がやるのが当然のようにも思えたし、何より、麻木の纏う空気が刺々しくなかったから。
それがなぜなのかを、あのときもっとよく考えるべきだったのだ。
ある日、夜遅くまでゲームをやっていたとき、麻木がひとり寝落ちてしまった。ベッドに腰かけた状態から、上半身をこてんとベッドに沈ませ、片手はコントローラーを握ったままで、足を投げ出して眠っていた。
なあ鳴海、と椎葉が呼びかけたのに返事がなくて、ふと見たときには既にそうだったのである。そうなってようやく時計に目がいって、そしたら椎葉が「もうこんな時間か、片付けないとな」と笑って言ったので、赤間もおとなしく頷いた。椎葉と遊ぶ時間が終わってしまうのは名残惜しいけれど、食い下がるのは迷惑だし、不自然だと思えたからだ。
ゲームを一式片付けると、椎葉は麻木へ近寄った。
「ほら、ちゃんと布団かぶって寝ろ。また風邪ひくぞ」
ベッドの側に腰かけて、ちょうど目の高さにある麻木の頭を、ひとつ撫でた。普段は触られようものなら飛び起きる麻木も、すこし身じろいだだけで起きる気配はない。
赤間はその光景に釘付けだった。優しく麻木に触れる椎葉の動きひとつひとつが、そのさまが、なんてことはなくただ触れているだけであるはずなのに、ひどく色を感じさせるものだったからだ。見てはいけないものを見ているような気分にさせた。背徳感、なんてものが背をのぼって、色っぽいそのビビットピングの瞳に、意識を奪われていた。
「鳴海、」
頭をもういちど撫で、そのまま手は首筋へ下りた。麻木が僅かに声をもらして身じろぎ、寝返りを打とうとするのを制するように、親指でそっと輪郭を耳までなぞりあげ、そのまま徐に顔を近付け、首筋に鼻を埋めたところで――椎葉は赤間を見遣った。
にやり、目が合うと意地悪く口角を引き上げて、細めた瞳をひどく楽しそうにゆらりと遊ばせた。そうしてその男はなんと言ったか、
「…してほしいか?」
お前も。
そこで赤間はようやく、自分が遊ばれていたことに気がついた。
全て当てつけだったのだ。麻木にとって自分が特別な存在であるという事実を見せびらかして、そうして赤間もそうなりたいのかと、たとえ頷いたとしたって絶対に受け入れないくせ問いかけた。熱のこもった目で姿を追っていたことを知っていたから、わざと色っぽい仕草でもって煽り、「けれどお前にはしてやらない」と突きつけて、言われた赤間の反応を見ようと遊んでいた。
かっと頭に血がのぼって、部屋を飛び出し乱暴にドアを閉めた。そこが麻木の部屋だということすら忘れて。
それ以降、ひどく単純なつくりをしている赤間は、椎葉カオルという男に嫌悪を抱いて生きてきた。そしてそれを当然分かっている椎葉は、やはり赤間を弄んで笑う。でも俺のこと好きだろうと、そういう目をしていた。そういう人間だ。自分に好意を寄せる人間で遊ぶような男。
(死んだと思っていたのに、)
麻木には悪いが、清々したと思っていたのだ。とんだ悲報だ。ひとつ舌を打つ。
懲りない自分はいまだ同性を好いていて、なぜ学習しないのだろうと自分で哀れに思わなくもない。
それでも吉川はあんな最低な男とは違う。好意を示せば素直に喜んで笑うし、向けられたそれを利用したりなどしない、同じどころかそれ以上の好意でもって応えようとしてくれる。抱き寄せる肩は薄く、背中へ回される腕は白くて細い。人形のような造形で、誰より人間らしくめいっぱい笑うのだ。
幸せだと思った。守るべきものがあるということが。ものを大事にできている自分はまるで人間のようだ。
あの男の生存を知らされ乱雑だった足取りは、吉川のことを思えば、少しずつ落ち着いていった。