#24 06/19
ズガン、と鈍く派手な音こそしたものの、弾丸はコンクリートを抉って潰れた。
外した。唇を噛む。犯罪者はその隙にこれ幸いとばかりに逃げていった。
異専には今、三人しかいない。本来なら24時間。最低ひとりでも署に待機しているのが望ましいのだが、それをこの人数で休みなく回すのはあまりに無理がある。
半年ほど前、椎葉からコンタクトがあったという署長は、口ばかり乱暴で人使いも荒いが、それでも異能への偏見が薄く、彼のもとで働けていることだけは、不幸中の幸いだ。夜間の出撃は緊急時のみ、昼は二人か一人で回すことにしてもらえて、私といおりは週に一度の休日が保障されていた。それでも椎葉は恩でも感じているのか、意外と真面目なのか、いおりのためか。なんにせよいつも通り考えていることは分からないが、とにかく彼だけは、要請もないのにひとりで夜勤をしていることがあった。
ともかく、そうして呼び出された夜中の一時半。スラムの住人であればまず出歩かない時間だが、こうして事件が発生し私たちが駆り出されたということは、行くあてのない浮浪児、あるいは肝試しにでも来た市街地の子供がフェンスを越え紛れ込み、異能犯罪者の餌食になっている、とみるのが妥当なところだ。
爆音はない。鏡見ではない。
まず呼び出しがかかったのは椎葉だ。なぜかは知らない、ということにしているが、署長との間にそういう決まりごとでもあるのだろう。夜間の呼び出しは、いつも必ず椎葉の無線しか鳴らない。
そうして椎葉に叩き起こされたのが私だった。曰く、
「俺じゃ心配だからどっちか連れてけってよ。神田起こすのイヤだろ?」
「あー逃げたじゃん。下手くそねお前」
「相手の異能が分からないから様子を見てただけです!…結局使われなかったですけど…」
む、と頬を膨らませて睨みあげる。いきなり機銃では周囲への被害が大きすぎるし、アサルトでは反射された場合のデメリットが大きすぎる。リボルバーで牽制しながら相手の出方を伺っていたが、異能の予測すらつけられないまま逃してしまった。
「どこに目ぇついてんの、使ってたよ」
「へ?」
きょとん、と細めていた目を一転丸くして、椎葉を見上げる。男はいかにも余裕そうな、どころか楽しげにさえ見える笑みを浮かべて、標的の逃げた先を見抜いていた。
ああ。私はこの目を知っている。
「じゃ、お前はここで待ってろ」
「なんでですか!異能が分かったなら…」
「イヤなら署に戻って代わりに報告書かいといて」
「……」
それがやりたくないだけじゃないですか。言うのもばからしくて、やめた。
私の呆れなんて知らんふりで、男は見据えていた先へとゆったり歩き出す。まとう気配はやはり、よく知るもの。
破壊や蹂躙を好むひとのもの。
男が角を曲がって見えなくなり、はぁと溜め息をつく。
そもそも椎葉ひとりだと心配だ、と言った署長は、どうしてそんなことを思ったのだろう。
座標移動の異能。署長は異能に詳しいわけではないから知らないのかもしれないが、異物を体内に直接捻じ込んだり、毒物を血液に流し入れたりが演算ひとつで容易にできてしまう、殺傷能力の高い異能であるのだが。それでも椎葉はいつも、特攻するいおりを私が援護する、という形が最適になるよう、加えてその形での確保が簡単かつ確実になるよう戦場のコントロールを担うことが多いから、単騎での戦闘は厳しいなんて、そんな風に思っているのかもしれない。実際、私も男がひとりで戦うところを、見たことはないけれど。
けれど。どうにも違和感が拭えない。
椎葉が「あれら」に似た気質と危険な異能を持っているなら、私たちのサポートに徹することも、何より標的の「確保」に努めることもないはずだ。犯罪者を捕らえるうえで一番評価されるのは、生け捕り、ではないのに。そういう組織であると分かって選んだのだろうに。いおりの手前、ということもあるかもしれないが、椎葉がひとを殺しているところを、たとえ正当防衛でも見たことがなかった。
しばらくぼんやり考えていると、見知ったブーツが地を叩く音があたりに響く。相変わらずゆったりした、やる気のなさそうなテンポ。間もなく椎葉が先ほどの角からひょっこり顔を出して、しかしその今までに見たことのない満面の笑みを、
「ほら、簡単だった」
血でべたべたにしているものだから、私は驚いた。
生きている。肩に担がれた標的も、当然、椎葉も。けれど椎葉のあちこちに跳ねている地飛沫は、返り血だけではない。
椎葉自身あちこちを斬られている。腹は鋭く抉られ、右肩はたぶん外れているし、前腕の骨もおかしな方向へ曲がって、力なく垂れていた。首すら刃物が掠ったあとがあり、一滴血が流れている。無事なのは脚と左腕だけだ。
「はん、ちょう」
「あれ?お前ってこーいうの平気じゃなかった?」
あまりににこにこしているものだから、分からない。心配なのか、恐ろしいのか、この男がなにをしていたのか、すべてなにもかも。駆け寄ろうと出した足は、しかし半歩後ろへ。
そんな私にそれ以上なにを言うでもなく、男は感嘆の声をひとつ漏らして、
「やー、楽しかったな」
ひどく弾んだ声で言う。
ああ。彼はやっぱり私の知るいきもので、けれどそれらとはまた、狂い方が違っているのだろう。
楽しかった。そう、楽しかったんだ。
念のため言っておきましょう、俺はそういう性癖の人間ではない。ああいや、なくはないかもしれないが、恐らく真先に想像されるであろう被虐、および加虐趣味なんてものはない。気持ちがいいのはそんなことじゃない。
分かっていた。幼いころから付き合ってきた性質だ。だからこのスラムに降り立ったとき、彼女が俺にのこした十字架は捨てた。あんな無機物が首元になくても俺は彼女を忘れない。なによりも鮮烈に覚えている。
だからこうして、誰だって「殺していない」。
俺は誰であれ「殺してはならない」。そう、誰もが誰かにとっての唯一である、そういう可能性があるわけで。こんなスラムで犯罪行為に勤しむような男にそんな存在がいるだろうか、という現実的な話ではなく。これは彼女が唱えた理想の話だ。
だから俺は殺さない。それでも異能である以上、俺も神田も、天道のもとを堂々と往ける生き方なんて、ほとんどないようなものである。誰も殺しません、みんな仲良くやっていきましょうなんて大きな声で言ったって、それは迫害を加速させるだと誰もが分かりきっている。それでも俺は、彼女が尊んだ形見が、後ろ暗くて通りも歩けないなんて、そういう人生を送らせるわけにはいかなかった。許されるはずがない、他の誰でもなく、自分自身に。
そうして数ヶ月、山から一番近い市街地で伝手と情報を集めたのだが、分かったことといえば、女は軽々しくてあてにならないということくらいで、残った一番まともな選択肢は、「国に犬の輪をはめて頂くこと」だった。異能であるなら飼われるとしても戦うしか術がないと分かっていたが、結局、神田に血を見せることにはなってしまった。
とにもかくにも、そうして俺は正義の味方になったわけで。どこぞの誰かには似合わないと笑われたけれど。
とはいえせっかくの荒事だ。事も無げに捕らえておしまいなんて、それではなんのために剣をとるのだかも分からない。加減ならいくらだってしてやれる、飽きるまで。命を削りあうあのスリルには、何にも替えがたい快感がある。
殺しそうになる、あの瞬間。その昂りがもうやめられない。