top of page

#26 06/28

 最愛のひと、ようやく見つけた。ようやく、みつけた。

 

「きみ、行くあてないのかい?」

 俺を見下ろした和服の男は静かにそう言った。

「…それが、なにか」

 俺は人を殺してしまったのだ。行くあてなんてあるわけもなかった。

 橘アキ、15歳。市街地に生まれ、父親ひとりに育てられた。俺が異能だということが分かった次の日、母親は綺麗に姿を消してしまったらしい。異能には詳しくないが、どうやら俺は「早期発症例」という厄介な生き物であるらしかった。物心なんてついているわけもない2歳のその日、俺は物質反射の異能を発現させたという。自我のない生き物が異能を振るうのだ、よほど恐怖だったろう、母と同じ立場だったら俺だって蒸発する。父ははじめから望まぬ子供だった俺に興味など欠片もなく、家にはほとんどいないし、いても会話をすることなんて年に数回あればいいほうだ。そんなだから俺が異能を持っているとを知っているかどうかすら怪しい、まあ母親が消えた理由を知らないわけはないとは思うのだが。だからきっと、いなくなったことにも気付いていないだろう。

 

 なぜそんなことをと言われたら本当に好奇心でしかなく、今になってみると自分でもなんて馬鹿なことをと思う。なにも知らない子供だったのだ、フェンスで区切られたその向こう側の世界が気になってしかたなかった。危険だと周りの大人から聞いてはいても、結局そこに、スラムに入ったことのあるひとなんて誰もいなかったし、そうやって隠されてしまうと余計気になってしまうものである。だからあの日、中学三年生の夏、興味本位でスラムへ足を踏み入れてしまった。

 

 たった数歩しか歩いていなかったのに、今にしてみると流石というべきか当然と言うべきか、間の抜けた「スラムの外の人間」というのはすぐに分かるものなのだろう。横の路地から俺に向けて投げられたナイフが飛び出してきて、俺は咄嗟にそれを異能で反射してしまった。弾かれたナイフは一直線に投げたと思わしき男の、心臓の位置に突き刺さって、男は膝をつきすこし呻いたあと倒れ込み、静かになった。広がる血に、男の死と、自らが人を殺したのだという事実だけが浮かび上がる。逃げ出そうとして足がもつれて、その場にへたりこんだ。市街地では犯罪自体なくはないが、直接目にしたことなんてなかった。突然人間に襲われたことにも、それを殺してしまったことにも、動揺と恐怖が湧いてとまらなかった。
 そうして呆けているうちに、男の仲間なのか怖気づいた俺を見ていい餌だと思ったのか、次々異能と思わしき人間が襲ってきたが、身を守るために必死で、そのあたりの記憶は曖昧だ。途中、俺を取り押さえようとしたのか、なにかを言いながらこちらへ向かってきた一般人と思わしき男もいたけれど、気が動転してそれも敵だと思い殺してしまった。


 その日は人を殺したことが誰かに気付かれることが怖く、そしてあまりに後ろめたく、市街地へ戻ることもできなかった。後ろめたい、のは、彼女にだ。この手では彼女に触れられないと思ってしまった。

 そうしてスラムで身を隠していたときに声をかけてきたのが、その和服の男――赤間千秋だったのだ。

 

 それから3年。その男に情報管理担当として雇われながら、俺は時折、市街地へ足を運んでいた。彼女を、黒瀬あやねを探すため。

 

 スラムに来て以来、騒動で携帯が壊れてしまって、誰とも連絡がとれていなかった。当然、黒瀬とも。
 彼女は俺の幼馴染であり、中学生の時分から付き合っている恋人でもある。最初で最後、唯一俺の心を動かしたひとだった。黒瀬あやね。14の誕生日、彼女から最後に贈られたマフラーを手放したことはない。
 仕事の合間を縫って市街地を何度も何度も探し回っているのに、彼女はどうしても見つからなかった。一度彼女の家を訪ねたことがあったのだが、確かに黒瀬の母親に間違いはないのに、「そんな人間は知らない」と門前払いを食らってしまって、それ以来彼女の家には近付いていない。

 今日はひどく空が重く濁っている。近いうちに降るかな、と手ぶらで思ったけれど、市街地にはちらほらコンビニがあるから、いざとなればそこで傘くらい買えばいい。そうやって増えてばかりのビニール傘は邪魔だけれど。
 いつもとは違ったルートを行く。彼女の行動範囲は狭いからとそこをずっとめぐっていたけれど、こんなにも会えないのだから場所を変えたほうがいいだろう。そうしてふと、ある墓地の前を通った。身近にある唯一の墓地。空が重い。空気が濁っている。俺はなぜだか吸い寄せられた。ひとつ、ふたつ、彫られた文字を追っていく。みっつ、よっつ、淀んだ空気が肺を満たす。春も終わるというのに背筋を寒気がのぼる。彼女がくれたマフラーを握り締めた。いつつ、むっつ、

「……みつけた」

 最愛のひと、ようやく見つけた。ようやく、みつけた。

 

「ならば」

 声に男が振り返る前に、一振りで首を刎ねる。吹き飛んで頬にかかった不快なそれを指で拭い、ハンカチに擦りつけた。

 

 哀れな男だ、同情しないこともない。が、千秋のための組織より大切なものはない。仕方のないことだ。
 こういう時ばかりはあの出来損ないも役に立つ。そろそろアキは限界だろう、と、昨日奴がそう言ったばかりでこれなのだから。

 

 橘アキという男は、自身の恋人が既に死んでいることを知っていた。
 その女が自殺するところを、その目ではっきりと見たらしい。麻木が誰にでもするように等しく傷を抉ったようで、そのときは奴が嬉しくなるほど大層精神を乱したらしいが、次の日にはそのやりとりすら記憶から消していたという。つまらないと俺に愚痴を垂れていたのはいつの事だったか。女の後を追おうにも自ら命を絶つ恐怖に勝てず、誰かに殺してもらおうとあのフェンスを越えたのに、それでもまた生にしがみつく自分を受け入れられず、女を「死んでいないことにした」。けれどそんな暗示もいつまでもは続かない。
 ああいう手合いは錯乱してなにをしでかすか分からないから、男が墓を見つけたなら始末しろと、それが麻木の、組織の代表からの命令だ。不服ではあったがそれは正しい選択であろうし、奴は千秋の脅威となり得る可能性をひとつも許したくないだけで、その点だけは利害が一致する。

 

 この男は、橘アキという人間は、この3年を一体なんのために生きたというのだろう。虚ろに開かれたままの瞳を閉じてやることもなく、異能でもって灰すら残らぬよう焼き払った。

bottom of page