#28 06/30
その日、わたしは初めて彼女の涙を見た。
「おかえりなさい、いおり」
母親代わりだったという女性のもとへ行っていたいおりが帰ってきた。椎葉は帰宅するなり仕事だと言い半笑いで出て行ったのだが。
いおりはちいさくただいま、と言ったきり、温かいカフェオレを淹れたマグカップを両手で挟み、じっと窓の外の空を眺めている。いつもと様子が違う、と、そんなことは分かっていた、顔を見たその瞬間から。もとからとても口数が少ない少女ではあったけれど、いまはそういう性分とは関係ない要因があるのだろう。いつもと変わらない無表情でも、張り詰めた空気やぼんやりと虚を見つめる瞳、硬く結ばれたくちびるから、いつもとは違う気配を感じ取れる。
「…いおり、なにかあったんですか?」
すこしだけ、迷った。自分が首を突っ込んでもいいことなのか分からない。
彼女は、例の母親であった女性のことを、当たり前だがひどくいとおしく思っている。わたしにもいおりをはじめ大切なひとがいる、それを失ってしまう恐怖やかなしさも痛いほど。だからこそ彼女のなかの「家族」に入り込みたくはなかったけれど、それでも全く気付いていないように振る舞うのは優しさなのか冷淡さなのか、わたしには判断がつかなかった。彼女がもしなにもない、と、そう言うなら、すぐいつもと同じ振る舞いに戻ろうと思っていた。
けれどいおりは、窓の外を眺めたままで幾度かゆっくりまばたいたあと、こくんと力なく頷いた。一度だけ床へ視線を這わせて、けれど緩やかな動きでわたしの瞳を見つめる。いつものような力強さは、そこにはなかった。
「…あのね、」
ぽつりと一言そう落として、しかしすぐに黙り込んでしまった。ぎゅうとマグカップを握るその手に力がこめられていく。
どうしよう、と悩んでしまった。自分から口を出したのに、彼女がなにを思いなにを言おうとしているのか、なにも汲み取ってあげられない。いおりはきっと隠しごとがあまり好きではないから、訊かれたことに対して拒絶を示すということを知らないのかもしれない。言いたくない、知られたくないという感情を。それを想定できず掘り返してしまった数秒前の自分の軽率さを悔やんだ。
「いおり、あの、無理になにもかも話さなくてもですね、…っ」
ぽた、とひとつ、彼女のおおきな瞳から涙が落ちた。息を飲んで硬直する。
ああ、やってしまった。わたしが彼女を傷つけてしまった。パニックを起こしてなにも言えずにただその涙を眺めていると、彼女は自分が泣いていることに気が付いたのか、ぱっと顔をあげて細々しい笑顔をみせた。
「ごめんね、すこし、お母さんのことを思い出して」
けれど彼女の涙はとまらない。次々溢れて頬を伝っていく。違うんです、なんて、謝罪にもならない言い訳が口をついた。笑っていてほしいと願ってはいるけれど、涙を隠すために使ってほしいわけはない。机の下で爪が食い込むほど拳を握り締めた。
それでもわたしの手は彼女と違って優しくなんかない。そうなりたいと祈ったってもう遅いのだ。彼女にこの手で触れたことを、今更後悔した。
「ひな、泣かないで、わたし、今だって幸せだよ」
けれど彼女のやさしい手のひらは私の頬を撫でる。反射的に振り払いそうになった手をさらに握り込んで堪えた。
あなたに笑ってほしいとき、どうすればいいのでしょうか。もっと幸せになってほしいという願いは、どうしたら叶えられるのでしょうか。
なんにも知らないまま大きくなってしまった。しあわせな暖かい空気が肺を痛めつけていく。どうしたらだれかを正しく大事にする方法を知ることができたのだろう。わたしはずっとずるくて臆病なまま生きてきて、きっとこの先もずっとそれは変われない。
どうすればいいの、なんて、訊いたってもう、こたえてくれるひとはいないのに。