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#30 07/02

 正義を示す深く青い制服。それは私にとって幸福の象徴だった。

 兄がいた。もう死んでしまった兄。千ヶ崎あずさ。


 私は自分の持つ異能が、異能を持つ自分が嫌いではなかった。両親は私を疎んで避け、時には手をあげたりもしたけれど、いつも助けてくれる兄が、その背中が、まるでヒーローのようにかっこよかったから。
 少しだって苦しくなかったといったら嘘になるけれど、兄が助けてくれる自分を、自分が憎めないと思えた。兄は私の自慢だったし、憧れでもあった。よわい私を助けてくれた彼が本当は強かったのか、今となっては分からないけれど、それでも当時の幼かったはずの兄は、私にすこしも不安を感じさせはしなかった。彼が笑いかけてくれるのだから自分が不必要な存在なはずはないし、不幸であるわけもない。そんなふうに私に魔法をかけた兄が、とにもかくにも、私は誰よりだいすきだった。

 

 私の家は、官舎があって暮らしているこのスラムからは遠い、市街地にあった。市街地ではごく一般的な、裕福でも貧しくもない家庭。特殊なことといえば、私が異能を持っていたことくらいだった。
 小学校では異能であることを隠して、いつも一人でいた。声をかけてくれるクラスメイトはいたけれど、異能であることが知られたら嫌われるのだから、窮屈な関係を持ちたくなくて、自分から一人になっていた。あまり同い年のこどもに興味がなかったのだろう。
 だから、放課後はいつも真っ先に家へ帰り、部屋に荷物を置いて、誰もいない小さな公園で遊ぶのが決まりだった。夕焼けが綺麗な時間になると、中学校の終わった兄が自転車を押しながらその公園に私を迎えにきて、2人で並んで帰れるのだ。時々、兄がコンビニでお菓子やホットスナックを買ってきてくれることがあって、そういう日は2人で古いブランコに腰かけて、一緒に食べた。私はそんな、ささやかでも緩やかに時間が流れていく兄とのひとときがとても好きで、今でも兄のことを思い出すとき、後ろには必ず綺麗な夕焼けが浮かんでいる。彼は夕焼けがよく似合うひとだった。
 そう。今にして思えば私は、兄に迎えにきてほしいだけだったのだろう。彼が私を認めてくれるならなんでもよかったし、私をその目で認めてくれる存在が、そのころ兄のほかにはいなかった。

 ささやかながら確実に幸せだったのだけれど、いま私がこうして兄を過去のひととするほかにないように、それには終わりがある。
 ある夜、いつも通り会話のなかった静かな食卓に、突如銃声が響き渡った。その直後に家の壁が一面まるまるおもちゃのように剥がれ落ちて、支えを失った家がおかしな音をたてて歪んで、今にも崩れそうに木片がいくつか天井から降ってきた。
 先ほど響いた銃声を鳴らしたであろう拳銃を持った男がひとり、なにかを叫びながらそれを私の父に向けていて、ああ、きっと異能犯罪者なのだと、驚く体とは反対に、頭だけ冷静にそう思った。市街地では珍しいけれど、全くないことじゃない。まさか自分が被害者になるなんて想像もしなかったけれど。

 

 珍しいことではあっても、異能とは災害のように忌まれているもので、まるで訓練でもされたように、周囲は速やかに警察を呼ぶ。火の粉は降りかかる前に誰かに押し付けてしまいたいんだろう。程なく警察官が駆けつけて、リビングが丸見えになった私の家を囲んだ。
 男は私たちを人質とし、警察となにか叫び合いながらやりとりをしていた。どこかで犯罪を既に犯していたのか、金銭や逃走用の車などの要求をしていたけれど、警官のひとりが、威嚇で向けているだけのはずだった拳銃を、一発鳴らした。するとまるで示し合わせたように全員が発砲をはじめ、焦った犯人は当然、人質にその銃口を向けた。

 

 そこからの記憶は曖昧だ。兄が私を庇うように覆いかぶさったことは覚えている。真っ暗な視界に悲鳴だけが劈いて、幼かった私は耐え切れず意識を手放した。
 視界が戻ってきたときにはもうすべて終わっていて、兄のおかげで男からは私が見えなかったのか、怪我ひとつしていなかった。簡易的な椅子に座らされ、若い警官が私の肩を支えながら顔を覗きこんでいて、ああ、私だけ警察に保護されているのだと、状況を理解した。その、瞬間に。
 様々な感情が溢れかえって、ひどく喧しくなった脳内が、けれど一周回って冷めた。

 物質干渉。触れたものを好きな形に、好きな素材に変えてしまえる異能だった。
 両の手のひらを地面につく。それに意識を集中させて、コンクリートから警官のものを真似た拳銃を生成すると、現場にいた警官を全員、撃ち殺した。

 涙ひとつ流す隙さえなかった。冷めた頭、本当に全てが終わったあと私のなかに蘇ったのは、怒りと憎しみのふたつだけだったのだ。
 男の要求を飲んでいれば、交渉を続けていれば兄が殺されることはなかったはずなのに。異能を野に放つくらいならたった4人の家族くらい見捨ててしまおうと、そう思ったに違いない。そんな意識しか持ち合わせていない警察という組織も、それを良しとするように富裕層だけを隔離しはじめた国も。すべてがただ許せなかった。いとおしいひとを返してほしいと、いくら叫んで抗っても、もうあの温もりは永遠にかえってなんかこない。世界にひとりで、放り出されてしまった。
 迎えにきてくれるはずの兄をなくして、私は行き場をなくした。

 そうして身を隠すためスラムに流れついた私を拾ったのが――鏡見四季という男だった。

 彼は地面に座り込んでいた私を見下ろしていた。隠されてもいない殺気を肌で感じられる程度には、スラムという場所にも、そういう気配にももう慣れていた。
 私にはどうしようという気もなく、ただじっと、昏い目で男を見上げた。彼は綺麗な夕焼けを背負って立っていた。

 

 なにを思ったのか。男は私を殺さなかった。気安く名を訊ねた。答える義理などないと思って、ただじっと男の、そのくすんだ灰色の目を見ているばかりだった。すると彼は不思議そうな表情をしたあと、屈み込んで私と目線を合わせると、ピンと一度私の額を指で弾く。

「ねえキミ、名前は?」

 そして再び、気安く名前を訊ねた。
 彼が、鏡見がなにを考えていたのかは分からない。けれどぼんやりとした私の瞳に、夕焼けを背負い立つ鏡見は兄の面影と重なって、そう思ってしまったらもう、思考は弾けて飛んだ。
 まるで悲しみに追いつかれたような気分になって、額を弾いたその手を掴んで縋って、ぼたぼたと涙を流した。

 ああ、兄は、死んだのか。もうどこにもいない、二度と会えはしない、迎えなど絶対に。
 最後までやはり、わたしのことを守ってくれた、ヒーローみたいにかっこいいひとだった。罪悪感と感謝と寂しさがないまぜになって、混乱する頭をどうすることもできずに、ただただ泣いた。一生分の、あとにもさきにも吐き出せないであろう悲しみを、ここですべて処分してしまいたくて、縋ったその手の形に覚える違和感を、無理になかったことにした。

 鏡見はなんにも言わず私に付き合って、こどもをあやすように、下手くそな手つきで私の頭を何度も撫でて、髪がひどくぐしゃぐしゃにされたのを覚えている。

「落ち着いた?名前、そろそろこたえてよ」
「あ、ずさ」
「あずさ?」
「…あずさ、」

 そのときなぜ兄の名が口をついて出たのか、私には分からなかった。ことばがつんのめって、まともに喋れやしなかった。違うとも、そうだ、とも、なにも言えなかったけれど、彼は今も、私をあずさと呼ぶ。
 訂正しないのは、まるで兄と生きている気分になるからだ。
 兄に死んでほしくなかった。いつまでも自分のそばにいてほしいと思った。だから未だに鏡見を兄の代わりと思って面影を探しているし、自分の存在を兄の名前で上書きすることで、まるでふたりで兄の代わりになって生きているようだ、なんて、甘い夢を見ていたいのだ。もちろん鏡見にそんなつもりは毛ほどもないのだろうけれど、私が勝手にやっているだけでも、自分を慰めるのには十分だった。兄は強くて優しかったけれど、私たちは臆病で、乱暴だ。到底ひとりじゃ兄には届くはずもないから、ふたりで兄になるのだ。
 だって彼は死んでいいひとではなかったはずだ。彼が殺される、見捨てられる、そんな間違った世界は認められない。ならば彼を愛した自分がやるべきことなど、たったひとつに決まっている。
 反逆だ。

 だから「千ヶ崎ひな」と名乗り、神田いおりに近付いた。彼女を利用して組織の内部に潜入することが目的だったのだ。
 そうして得た情報を上神を通じて鏡見に流し、彼になるべくたくさんの命を奪ってもらうことが、国そのものへの反逆のはじまりだった。開戦の合図の狼煙のように、なるべく派手に、広範囲で。幸い鏡見は楽しく暴れられればそれでいいというひとだったし、なぜだか自分が頼めば笑って頷いてくれていた。ただ自分の好きなことができるから、でしかないのかもしれないけれど。
 本当に鏡見は、兄とは似ても似つかない。それでも感謝していたし、好きだった。今はもうなくなった、兄との形の違いに違和感を覚えた手のひらも、下卑た声で笑ってみせる口も、兄よりずっと傷んでいる髪だって、ぜんぶ、私のために、そこにあってくれるから。さみしいと私が言わないように、意地悪に、隣にいてくれるから。

 目を伏せる。けれどもうその裏に浮かぶのは、兄でも、鏡見でもない。たったひとりの少女だけだ。
 今日は特別だからと、上神を介さず鏡見のもとへ来ていた。あの男は所詮弱みを握られているたけに過ぎないうえ、情報屋とはもとから信用に値しない生き物だ。できるだけ頼りたくはない。

「あずさ、寂しくなったの?いつも通り上神に伝えればよかったのに」
「情報屋は信用ならない生き物ですよ、鏡見。より利をもたらす方に簡単に寝返りますから」
「だーいじょうぶ、妹ちゃん諸共爆破するよ。アイツは俺に勝てないし」
「相変わらずの自信家ですねぇ」
「てかさ、もう新しいおにーさんいるんじゃなかった?寂しくないじゃんね」
「また椎葉のことを言ってるんですか?気味の悪い冗談はやめてくださいよ、血も繋がっていないのに家族ごっこなんて、ばかばかしい」
「あっはは、変わってなくって安心した、その調子でよろしく頼むよ」

 鏡見はそういってけたけたと楽しそうに笑ってみせる。椎葉を指して兄などと言う鏡見の意地の悪さ吐き気を催していたころが懐かしい。もう、慣れてしまった。

 いつの日だろうか。神田との触れ合いが安らぎへとかたちを変えて、私のこころを蝕みはじめた。

 自分の体を犠牲にしてがむしゃらに人々を助けようとする後姿、組織の道具を扱うような態度をものともせず、己の正義を貫くつよい心。
 そう、彼女のきれいすぎるすがたに、私は兄の面影を見た。
 私を守るために駆けつけてくれる背中。私を見て優しく細まるひとみ。暖かくて力強いてのひら。泣きたくなるほど、苦しくなるほど、悲しすぎるほどに、彼女は美しかった。ただまっさらだった。
 兄が死んだ、14歳という歳の。生き写しのように強くて優しい少女。

 ひな、と、もう捨てた名前で私を呼ぶその声が響くたび、どうしようもない罪悪感に襲われた。彼女には泣いてほしくない、寂しい思いなどしてほしくない。いつかいなくなるであろう自分を、まるで本当の家族のように、宝物のように大切にしてくれる彼女を、これから自分は悲しませてしまうのだろうか。胸が痛んで張り裂けそうでも、それでももう後戻りもできない。できるわけがなかった。退くための道を自分ですべて断ってきた。

 彼女のことは裏切れない。鏡見と兄のことも裏切れない。
 だからこそ、私はより強く誓ったのだ、この国への反逆を。彼女がもう、国のために危険なことをしなくて済むように。残った大切なひとたちと、穏やかに生きていけるように。
 この国の中枢は、たったひとつしかない都市部に全てが集まっている。そこを叩いてしまえれば当然ひどい混乱が起きて、それに乗じればこれから私が崩す場所から、彼女を攫ってしまえる。どこか遠いところで、もう二度と国なんかに操られない場所で、ただ幸せになってほしいだけだ。罪はすべて自分が背負っていなくなる。それで全てがうまくいく。神田いおりの幸せは、間違いなく私ひなの幸福だ。彼女の光を受けると宝石のようにきらめく髪を目に焼き付けて、日々を生きてきた。この先、後悔などしようもない。

 

 それが「だれかを大事にする」うえで正しい方法なのかは分からない。それでもずるくて臆病な私では、こんな道しか歩けはしないのだ。大丈夫、わたしの本当の気持ちは、彼女だけがきっと知っている。

「鏡見、そろそろ始めましょう。国を叩くための情報を、」

 いまの私なら。
 それは声になることはなかった。
 路地から飛び出した影が、私の喉を攫って、ちいさな頭が宙へ飛ぶ。鮮烈な赤が飛び散って空間を濡らした。

 7月2日、朝焼ける路地でのこと。

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