#31 07/02
私はその瞬間も、いおりのことを考えていた。
きっとばちがあたったのだ。
なんであれ彼女を騙していたことに違いはない。宙を舞う頭が意識を途絶えさせる寸前、痛みすら感知しない脳で思っていたのは、彼女への謝罪だった。
彼女はきっと寂しがってしまう。こんな自分でもあんなに愛してくれたひとだから、真実を知ってもきっと悲しがる。千ヶ崎ひながそうさせるのではなく、神田いおりだからこそそうなってしまうのだ。優しいばかりでなく芯の通った強さを持っているから、寂しいことから目をそらさないで生きていくに違いない。
彼女は彼女の母と自分が似ているといっていた。話に聞くそのひとは、わたしのように子供っぽく感情的なんかじゃなかったけれど、いおりのなかでは「大切な家族である」という一点で関連付けられているようだった。だったら家族を二度も失う彼女はどうなってしまうだろう。わたしは兄を一度失っただけで済んだ。鏡見も椎葉も生きている。鏡見がわたしを引っ張ってくれる手つきは兄より乱暴だったし、椎葉の背はあのころ幼かった兄よりずっと、広くて丸い。けれども2人ともまだ生きている。あの日わたしを庇い死んだのは千ヶ崎あずさただひとりだ。
自分ばかり暖かい空間のなかでぬくぬくと守られて、そこで一番優しかったひとに裏切りと寂しさだけ置いて死ななければならないなんて。彼女を騙したことはきっと許されないのだ。だから打ち明けることも、彼女のために生きることもできず、彼女に許してもらえない私のまま死んでいく。兄の仇も討てなかった。わたしの手にふたりぶんの命は大きすぎたのだ。兄として国に逆らうことも、わたしとしてやさしいひとと時を共有して生きることも。この身は小さすぎた。なにもできなかった。すべてこの手から滑り落ちていった。兄の人生もやっと終わった。彼は死んだ。
わたしと共に死ぬのだ。
勢いよく飛び出し千ヶ崎の首を攫った影は、空中で回転し足をビル壁につけ、すぐさま鏡見に飛び掛ろうとする。赤茶の髪を朝焼けに鈍く尖らせながら、ぎらついた群青の瞳で鏡見を射抜いていた。右手に握りこんだナイフを構える。鏡見は唖然としていた。ただ千ヶ崎の頭があったところを見ていた。彼女はいま自分になにを言おうとしていた?
瞬間、間に割り込むように爆音が轟いた。衝撃波となってビル壁を抉り骨格を歪め、あたりは煙と巻き上がった埃で視界が悪くなる。途端鏡見は左から腕を引かれた。細い指に、上神だ、と思った、この衝撃波は彼の異能だったことに気付く。そうか、あの男から逃げなければならない、あの殺意すら発さないいきもの、獣のように鋭くて、機械のように理性的な目の、あの男、赤が強く滲む茶髪を揺らす、千ヶ崎を――
「…あずさ、」
千ヶ崎を正確に歪みなく殺した男。きっとあれから逃がされている、自分は。
足がどう動いているのかも分からないまま走っていた。殺し合いで負けるなんて思っていないけれど、いまは頭が混乱して、身体をどう動かせばいいかが分からない。多分、撤退が正しい。上神に命令されるのは癪だったが、まだあの光景の意味を、心臓が理解できていない。千ヶ崎は死んだ。首をはねられ死んだ。馬鹿みたいに心臓が激しく脈打って壊れそうだ。拒むみたいに。
去っていく鏡見の背を追おうと踏み込んだ、千ヶ崎を殺したその男は、しかし硬直する。
「おーい、そこで何してる」
間延びしたやる気のない声に、群青の瞳がぐらつく。全身に痺れが走り力が抜けてナイフを落とした。血が飛び散る。
りん、と、陽が低くまだ光の差さない薄暗い路地に、その声はあまりにも、はっきり響いた。
聞き逃すはずがない。間違えるはずがない。
「って…鳴海?何して、」
こつん、アスファルトを踏む音。
柔い若苗色を揺らす椎葉は、血を浴びた麻木の――足元を見た。