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#32 07/02

 彼のことが好きだった。どんな風にでも。

 母は俺と決して目を合わせず、そばへ近付くと劈くように拒絶を叫び、声を発するだけで「異能を使うな」と俺の肩を突き飛ばした。彼女は怯えていたし、憎んでいた。異能を産んだ自身のことも、異能を宿した俺のことも。
 母の前で俺は、決して声を鳴らさず、決してなにも悲しまない自分でいた。俺が悲しむと、まるで母が加害者であるように錯覚させるような気がして、その錯覚するだれかという存在の有無は知らないけれど、ともかくそれは自分が許さなかったし、寂しがることもそうだ。彼女のすべてを壊してしまった自分にできることは、これ以上彼女の人生に介入しないことだけだった。だから俺は、異能を使わない俺に成った。声を、鳴らしてはいけなかった。

 千秋は恩人だ。異能である俺を快く受け入れてくれ、数年前、仕事を始めるまでは、あの家においてくれていた。けれど彼が俺を迎え入れてくれたのは、俺が異能だったからだ。千秋は異能という不条理のルールや成り立ちを解き明かすことに没頭していて、さまざまな異能がそばにいることを利益とする人だった。それだけのことだ。
 だから彼の前で俺は、異能を受け入れ利用できる、そう、都合のいい被験者でいた。言われるまま異能を使い、宿った体に薬物を投与したいと言われれば飲み、普段はそういう彼の首を守るための組織を取りまとめて、命を危ぶむ脅威がいれば片端から掃除した。組織の維持のため暴君としてそこに存在し、実力主義を敷いて、当然実力と結果を自分にも強いて。威圧して制圧して、制御した。組織も自分もなにもかも。そうすることに躊躇いもなかった。千秋にとっての価値を失わないよう、異能を受け入れられる俺に成った。声を、鳴らさなければならなかった。

 しかしそれは、両立なんてできるわけもないことだ。母への贖罪は終わることなく、けれど千秋が必要としてくれた異能は、千秋のために役立てなければならない。それだけが、それこそが、あの日母を殺した俺が今日息をしても許される、たったひとつの理由だからだ。
 ぐらついていた。意志が定まらない。俺、という存在が、その意味が、もうとっくに見失ってしまって、手も届かない。次第に手を伸ばすことさえやめようかと、思うようになった。

 その手を掴んだのがカオルだった。


 なにに成らなくてもいいと、そう言ってくれた彼は、けれどどうしようもなく冷たいひとだ。俺には役割がなければならない、そうでなければ存在がぐらついて安定しないと、そう知っているくせなんのかたちも求めないなんて、そんなのは、耐えられそうもなかった。彼に嫌われないようにするにはどう振舞えばいいのかを、最適解を、教えてくれない。だから今日も俺は不安定なままで、けれど隣には変わらず彼がいる。
 嬉しかった。利益や成果ではなく、俺という存在そのものを、そのまま許してくれたような感覚がするのだ。たとえば俺がどんな存在になったって、やっぱり俺に興味がないから、その隣にいてもいいのだと。冷たくカオルは言うけれど、かたちに成っていない俺を許してくれるのは、世界にただ彼ひとりだけだ。それを思うだけで肺が引き攣って、あいたいと、許されたいと底から沸く。

 

 彼といるときだけは嬉しいことばかりがあった。悲しいことなんてひとつもなかった。彼の前でだけは、なにひとつ完璧でなくてよかったのだ。目を見て、声を聞いて、そばにいてくれる。彼となら寂しいと感じることだって間違いじゃなかった。俺はカオルにとってのなににも成れなかったけれど、それでいいと言ってくれる彼から、幼少期に取り逃した愛情を取り戻しているような感覚があった。

 だから絶対に許すことができなかった。彼がずっと焦がれて、ようやく手に入れた柔らかな家族というものを、穢されることが。
 瀬東史織のことを詳しく知っているわけではない。神田や千ヶ崎という少女のことだって。時々カオルの口から出てくるその名前を覚えていただけで、それでもその瞳のゆらぎや声色から、ひどくいとしいものだったのだろうことが知れて、だから記憶によく残っていた。
 なにごとにも決して執着しない彼が、あの椎葉カオルが、唯一背負った「恩人の死」と、「恩人の宝を守りとおす」という重荷。それを侮辱されることだけは、許せなかった。麻木鳴海が許して良いわけがなかった。


 あたたかな家庭を手にいれて、それを彼が大事に思っているということが、どれだけの奇跡であることか。それを分かっているのはもう世界に自分だけだ、だからこそ俺だけは、彼がいま守っているものを貶されることを、許せるはずがなかったのだ。

「……鳴海」
「カオル、なんで、」

 逃げる鏡見四季を追うため踏み出した足は、しかしそれより先に進むことはなかった。ゆるりと首を捻り振り返れば、カオルが呆然と立っていて、ただ少女だったものを見ていた。
 どっとわけの分からない感情がこみ上げ、脳がなにを目的としたものかも分からない警鐘を鳴らしている。なぜ、どうして彼がここに。ああ彼は、俺を責めるだろうか、憤るだろうか。あの少女を椎葉が「大切なもの」、「必要なもの」と認識していたのは知っている。言葉にされなくとも、少女らの話を聞かすその目を見れば容易く分かることだった。
 けれど、でも、だからといって。彼がようやく得た居場所を貶されることなど、許されるべきではないはずで、けれどゆるやかに俺のもとまで視線を上げたカオルの目に、宿っていたのは、

「お前が、殺したのか」

 視線が絡む。そのひとみには確かに俺への拒絶が浮かんでいて、それを認めた瞬間、脳が凍りついたように回転する方法を忘れてしまった。思考が壊れるような音。

「カオル、こいつは」
「質問に答えろ。それだけでいい」

 ああ。ひどく、重なる。
 やめてくれ、そんな目で。お前も俺を、そんな目で見るというのか。

「カオル、ちがう、」
「早く答えろ、鳴海、お前が、千ヶ崎を殺したのか」

 こつん、アスファルトを踏む音。
 指先からちりちりと痺れが這い上がってくる。心臓が狂ったように脈打って爆ぜそうだった。声が掠れる。うまく喉が、鳴らせない、じわり、じわりと彼からゆっくり殺気が放たれて、まるで俺の首を絞めつけているみたいだった。

「ちがう、こいつは、お前のこと裏切ってた、」
「もう一度言う。お前が殺したのか」
「っ家族ごっこだと切って捨てた、そんなの俺が、許せるわけねぇだろ」
「…そうだな、俺も許せない」

 お前のこと。

 カオルはすらり、刀を抜いて、真っ直ぐに罪人の喉を捉えた。
 眩しい牡丹色が強すぎて頭が眩む。血の気がひいて、自分が立っているのかどうかさえ、一瞬で分からなくなった。どうして、どうして俺のはなしを聞いてくれない、どうして彼が、俺を拒んでいるのか。
 言ってしまえば簡単なことだと、それは彼が俺に教えたことではなかったか。

 椎葉がひとつ跳んで距離を詰める。咄嗟にナイフを取り出して態勢を整えたが、当然こんな壊れた思考ではろくに戦えやしない。次の一手も重心も、何もかもが分からず、何度もカオルの振り払った剣先が体を斬りつけていった。

「なにがあっても、お前が殺したそいつは、あの人の宝物にとっては唯一だった」
「だから、それも全部嘘だと、あいつは!」
「ひとがひとり死ぬことで、どれだけ人生が狂うか、知らないわけねえよな、お前が」

 容赦のない斬撃が、次から次へ叩きつけられる。その一撃は憎しみを表すように重い。ナイフでは受け止めるのも難しく、弾かれないよう受け流すのがやっとだった。頭がぐちゃぐちゃで体が動かない、いつものように自分の身体を制御できていない。当たり前だ、俺を操作していたはずの思考はまったくどうにかなってしまったのだから。
 考えなければ戦うことのできない俺と、反対にそれらを無くすほど集中できる彼。こんな状況では不利だなんて、誰もが知っている。獣のような怒涛の攻めに押される一方で、じわじわ追い詰められていった。

「カオル、俺の話を聞けって、なあ…!」
「…がっかりだ、お前にこんなことされるなんてな」
「――っ!ン、だよ、それ!」

 つまりは失望したと、彼はいま、そう言ったのか、俺に。
 頭が真っ白になる。膝が笑っている。最適解を見失って混乱する。体がどう動いているのかさっぱり分かっていないまま、俺の体がナイフを突くようにカオルへ向けたことだけが、人事のように薄らと見えた。
 途端。彼が笑った、ような気がした、

「っカオル!」

 簡単に受け流されるはずの、正面へ突き出されただけ、なんてことはない軌道を描いたナイフは、しかし迷いなく彼のうなじを深く切り裂いた。
 血が飛び散る、彼の制服が、髪が、赤く濡れていく。後ろへ倒れていく彼をほとんど無意識で追いかけて、肩を抱いたまま一緒に崩れ落ちた。
 そうして彼はやはり、いつものように薄く笑っていた。

「っはは…ほんと、ばか、お前」
「なんで、いまの、わざとだろ、なんで!」
「…お前は、もう許されない、誰かに許されたら世界が狂うような、ことを、仕出かしたんだから、いちばん…重い罰を、俺が下してやる」
「…は、なん、で」
「ばかだなあ、はは、俺のいない世界で、生きろよ、それがお前にとって、一番重い罰だ、…鳴海、生き抜いたら、許してやる」
「なに、を、いやだ、いや、だ、カオル、おれは」
「は…俺も、だめだな、最初はちゃんと、殺す、つもりだったのに、…やっぱお前のこと、嫌いじゃねえから、こんなことで、騙されんのかな」

 彼の頭を支える手が震えている。身体が奥底から冷える。頭が真っ白でなんの言葉も出てこない。声が鳴らない。ただ彼の喉を抉った、俺がつけたその傷口からどくどくと溢れ出る血液を、黙って眺めることしかできない。
 そっと、呆れたように眉を寄せて笑うカオルの左手が、俺の頬へ伸びて、

「なあ…泣くなよ、鳴海」

 罰、なんていらなかった。許してくれなければよかった。世界に、カオルに恨まれていようと、彼が生きているならばそれだけで、そう、どれだけ憎まれていたとしたって、俺は絶対に罪を背負いきれたはずだった。
 それでも彼は俺に罰を与えて償わせた。今更、償ったってもう遅い、のに、それでも彼は。さいごまで、どんな俺でも手を引いてくれた、昔となにも変わらない冷たい手で、いつから流れ落ちていたかも分からない俺の涙をひとつ拭ったきりで、その手はもう。

 どんな風にでも好きだった。椎葉カオルという、唯一の、理解者のこと。彼のためなら、彼にかたちを求められたなら、なににだって成れたのに。

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