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#34 07/04

 その男が落ちぶれるさまを見ていられなかった。

 これは自分のわがままだ。彼が、麻木鳴海が「完璧」を失うさまを見たくなかった。知りたくなかった。

 連絡がつかなかったその日、俺は彼のマンションへ足を運んだ。父に言われてのことだった。ほんとうは彼の部屋へ行くのはひどく躊躇われたのだが、どうしてもと食い下がられると断れなかった。父が麻木を大切に扱うことがひどく苦手で、長いことそれに向きあっていたくなかったのだ。別に自分より麻木のほうが、なんて考えがあるわけじゃないし、仮にそんなことがあるならば、それは喜ばしくさえある。父の興味関心の要は「異能」だ。そんなやつが俺より彼を愛しく思うなら、きっと自分は呪縛から逃れることができただろうけれど、現実はそんなこともなく、いつも父の最優先は俺だった。

 そうして遣わされたさき、麻木は椎葉の死体を横たえ俯いていた。よくは見えなかったけれどあの椎葉はたぶん、死んでいた、そのそばを身じろぎひとつすらせず離れない麻木の、目が、開いていることに気付いたとき、心臓が止まったような感覚がした。
 ひどく、恐ろしく見えた。ひとらしさ、というものが、いのちの気配がまったく絶えてしまった空間だった。群青の瞳はブレることなく、椎葉のどこかを一点に見つめていて、けれど時折ぱちりとまばたくのが、彼が壊れてしまったことを証明していた。生きながら、思考がありながら、それらを無視してただ息をしていた。
 その日は見ていられずに黙って部屋を出た。麻木が自分に気付いていたのか、それすら分からない。ただ麻木の、揺れることのない、金の光が散る群青の瞳が、いつものとおり曇って、いつものとおりまばたきながら、息のない椎葉を眺めていたことだけが、脳にじっとり貼りついて離れなかった。父に今は触れないほうがよさそうだとだけ告げると、翌日の仕事はルイに任されることになった。

 

 けれど麻木には、仕事のスケジュールが変更になったことを連絡できていない。彼ならきっと来るのだろう、と、思っていた。だって彼は完璧だ。完璧を纏って生きているひとだ。恩人である千秋を護衛する仕事を投げ打つはずがない、たとえ椎葉ひとりが死んだって、椎葉がいなかったあの六年を彼はのちに、死んだと思っていたと、いつもの顔で言ったのだから。その六年をあの人はなんてこともなく生きていた。だから今回だって大丈夫だと信じて、そう思いながらいやに冷える両手をポケットに押しやった。

 

 ぎりぎりと痛いほど冷えている。心配そうに吉川が顔を覗きこんできて、それになんとか笑って応えて、ぽんとひとつその小さな頭を撫でてやる。すると吉川は嬉しそうに目を細めて照れくさそうに笑うから、ふっと緊張が解れた気がした。
 俺は吉川を「愛している」。この世でもっとも大切で、尊いものだと「思っている」。彼を守るためなら「異能に頼ることさえ厭わない」。そこにはなんの他意もない。ほんとうに彼が大事なだけだ。愛しいという感情が腹の底からこみ上げるようだ。それを感じるたび、父に、自分は人として幸せになってやると、そう言ってやりたい衝動に襲われる。異能としての才能しか見えていない父が、まるで兵器にするような愛し方で育てた、そういう俺が、人としての価値を掴み取って、愛した人を守るために生きる。清々しかった。良い気味だと思えた。父の期待を裏切ること、それはきっと俺が人間らしくあることだ。俺が人生において最も焦がれた望みでもある。だからそれを叶えてくれる彼が好きだった。大事だった。彼だけはなにがあっても傷つけられない。

 

 その夜、彼は現れなかった。麻木鳴海は。
 失望、したのだと思う、自分は。けれどそうと理解できないほど大きなショックに脳が麻痺した。ぞわりと冷気が足元から這い上がってきて、内臓が凍てつくように冷えて痛んだ。だって麻木は、彼は、いつだって絶対的で、いつだってそこにいて、俺の命を、意思も選択もすべてをおびやかしていた。余裕を湛えた笑みで、高みから見下ろして、俺を、制御して、くれていたはずの彼が、その「完璧」が、剥がれて落ちて、同時に麻木鳴海という存在の絶対的な地位もまた、地に落ちた。彼は捨てた、何もかもを放って、ただ、息をするだけの生き物に成り下がった。愕然とした。

 俺は麻木鳴海を慕っていたのだとそのときはっきり分かった。指導者として、支配者として、それから唯一の恐怖として。尊敬していた、頼っていた、彼に道を示されていた。ようやく気付いた。

 冷える脳に、思考は正常を失ってガタついた。とにかく全身が寒くて、冷たくて仕方なかった。彼がいなくなって、いま、組織はどうなっていて、誰が一番力を持っているのか。人を束ねることに長けた人材なんていやしない。きっとこれから組織はみるみる瓦解していく。そして俺の、手綱を握ってくれるひとも消えて、俺が、瓦解していく、きっと、ほどけて、崩れて、形を失くす。


 手が冷たい。冷たい、冷たい手で、俺は、ナイフを取った。
 彼を消してしまおう。最後くらいはこの手で。これ以上彼が、俺のなかの「麻木鳴海」が、落ちぶれることのないように。絶対的で唯一だった彼を汚されないように。

 それは驚くほど簡単だった。麻木は俺に、気付きすらしなかった、きっと昔の彼なら気付いて、なんてこともないようにひらりとかわして、何の用だ、なんてぶっきらぼうに、振り返りすらせずに。そうだ、それが「麻木鳴海」だ、目の前のこれは彼とは違う生き物だ。俺はそう処理することにした。

 帰り道、足がゆらついて仕方なかった。真っ直ぐに歩けているのかすら分からない。地面がぐにゃり、ぐにゃりとして、しゃんと立てない。視界はガクついて、ブレきっていて、なにも鮮明に映らない。吐き気と寒気がとにかく酷かった。なにもかもをなかったことにしてしまいたかった。
 せっかく父が育てた、完璧な麻木鳴海、が、消えてしまったら、その次は俺じゃないか。片手間に構われる程度ですんだのは麻木がいたからだ。組織があったからだ。それらがなくなってしまったら、父の興味を最も強くさらうのは俺だ、赤間千夏という兵器の卵だ、異能という才能そのものだけだ。道を示す彼は死んだ。あとは父に手を引かれるだけじゃないか。なんで。どうして。

 震える手でなんとか家にもつれ込む。視界はゆらゆらして、触覚もぐにゃぐにゃとして、脳は凍てついて、自分がなにをどうしているのかよく分からない。とりあえず靴を脱ぐのにかなり手間取って崩れ落ち、そのままがたがたとしていると足音がひとつ、ぱたぱた忙しなく近付いてきた。

「赤間!…赤間?」

 なんとか拾い上げたそれは、いとしい、いとしい人の声だった。いとしい人、そう、俺を呪いから解き放つ鍵を唯一もつひと、…ひと。のろりと顔をあげると、その顔はいつものように笑ってはいなくて、ただ黙って、俺を見下ろしていた。なんで。どうして。

「…わらって、くれ、よ」

 わらってくれ。
 ようやく放り捨てた靴、抜けた足を床について立ち上がる、けれどやはり世界はぐらついて定まらない。ふらつく足で、とにかく冷えた身体を温めようと、布団のある寝室へ向かった。一歩、二歩、必死に前へ進もうとして、肩が壁を擦り、その肩からまた地に転がるはめになる。冷たいはずのフローリングはいまの俺には暖かく、歪んだ世界はぐわんと曲がって柔らかく俺を受け止めた。
 衝撃さえない。彼は肩を貸してもくれないし、応えてもくれない。けれど屈んで俺の目を見るその両手には、

「…あかま、ごめんね、」

 ずっ、と、衝撃が胸を突いた。こみ上げてきたものを抵抗できず吐き出すと、それは赤かった、そうか、血だ。完全に体から力が抜け仰向けになって、赤いそれを眺めた。漫然とそれを見ていると、ぐいと上半身が持ち上げられ、やはり冷たい、けれど柔らかいものの上に横たえられた。

「ごめんね、ずっと、大好きだよ」

 見上げる、俺の胸に包丁を突き立てた彼が泣いている。ぽたぽた、世界で一番きれいな涙を落として泣いている。拭ってやりたいのに、手が伸びなかった。

「…あり、がとう、」

 最後に動いてくれたのは、喉だった。


 そうだ、俺を解き放つ鍵を唯一持っていた彼は、正しく、俺を解放してくれた。ようやく許された、すべてから脱却することができたのだ。胸は喜びに満ちていた。視界がうまく定まらなくとも、最後の最後まで「彼」の姿を見ることができて、俺は、俺にしてはいい人生だったと、思えた。

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