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#35 07/04

「…あずさが死んだよ」

 それは鏡見から唐突に告げられた。なんでもない日の朝に。ぽつりと、何でもないことであるかのように。

 それは薄らとは分かっていた。爆音で煙を巻き上げ鏡見を回収したあの日、スラムの冷たいコンクリートに伏していたのは、確かに少女だった。鏡見とあんな路地裏で会話をする少女、なんて、千ヶ崎あずさ以外にはいないだろう。よく見えなかったから死因は分からないが、血があちこちへ大量に跳ねていたのはちらと見えたので、覚えている。
 それをまるで何でもないことのように、無表情で鏡見は呟いた。声を落とすこともなく、ただ静かに。それは却って鏡見のこころの揺れを浮き彫りにした。ひとが死ぬところを見るのが大好きな鏡見が、喜ばなかった。千ヶ崎のことだけは仲間と認め、慣れていないのにぎこちなく「いってらっしゃい」なんて挨拶をするほどには、千ヶ崎は鏡見のこころの近くにいたのだ。鏡見は恐らく動揺しているのだろう。人の死に様を見て喜べない自分に。切って捨てられない自分に。人の「死」に初めて、心臓を掴まれた。それが鏡見のなかで整理できていないのだ、おそらくは。

「…キミ、知ってる?あずさの本名」
「ああ、…千ヶ崎ひなだ。あずさは兄の名だな」
「ふぅん」

 千ヶ崎という少女はなぜだか、兄の名を偽名として使っていた。けれど、まるで「あずさ」こそが本当の姿であるかのように振る舞っていた、その遠い日を思い出す。異専の制服に身を包んでくるりと回ったそのときも、「ひなという名を使って潜入してきます」と、淀みなく言った。彼女にとってどちらが本当の顔であるのか、名前であるのかは、もう分からない。

 不謹慎にも、千ヶ崎に感謝している自分がいた。唯一仲間と認められた千ヶ崎が死んだことで、鏡見の心は揺れている。今まで他の干渉を一切許さず、自分の立てる波ですべて飲み込み攫うことを好んでいた鏡見の心はいま、他者が生み出した揺らぎや歪みを、静かに受け止めている。
 そう、鏡見は誰かを大切にしたことも、誰かに大切にされたこともないまま生きてきた。けれど大切にしようとしていた人物がいたことは、千ヶ崎あずさがいたことは事実だ。そうしてそれを失って、鏡見はただ、呆然としている。その感情の名前に戸惑っている。やっと人らしさというものをひとつ取り戻したのだ。俺にとって喜ばしいことだった。そうしてこのまま誰かに、否、もう誰か、なんて現れもしない他人に期待をするのはやめだ。俺に。そう、鏡見の大嫌いな俺にでも、大切にされ続けたらきっと、鏡見は「ふつうの人間」になれる。だれかを大切にできる。倫理観を手にすることができる。そうでしかもう、彼は救えないのだ。愛された経験が、あまりに乏しすぎるのだ。
 だから俺はもう迷わない。鏡見を、愛して、あなたの存在が大切なのだと根気強く教え込んでいく。俺のことを愛さなくていい、愛さなくていいから、ほかのだれかを愛せるひとに、なってほしい。

 

(そうか、あずさの本名は、ひなだったのか)

 あのとき口をついて出た「あずさ」、という名前が嘘だというのは、分かっていた。うろうろする目のとか頼りない声とか、なぜか不思議そうにしてみせる眉。あんなもの上神でだって分かるだろう。でもそうか、あずさとは、兄の名前であったのか。
 彼女は警察組織に恨みがあると言っていた。警官に兄を殺されたのだと、だから国に復讐がしたいのだと。ならばその意思を継いでやるべきか、否か。自分はただ派手に暴れたいだけで、人を殺して楽しんでいるわけでもなければ思想なんてものはもっとない。暴れられるんならどこで、なんのためだって一緒だ。ならせめて仇くらいとってやろうかと思って、けれどやっぱり、やめた。ばかばかしい。どうしてオレはこんなにも死者に執着しているというのか。帰ってこないのだ。もう、二度と帰ってはこないのだ。それはオレが分かりながら幾度となく繰り返してきた愚行だ、いまさら身内だけトクベツになんてお話にはならない。

 上神はきっと喜んでいるんだろう。オレの脳裏に焼き付いて離れない、千ヶ崎の首が飛んだあの瞬間の、オレの動揺を。かなしみというものに触れ、少しは人間らしくなったのではと、期待しているに違いない。
 けれどオレに言わせてみれば、上神の反応の方があまりにも、気味が悪いのだ。千ヶ崎が死んだと確定しても微動だにしない頬、目線。どころか奥底で喜んでいる。朱に交われば赤くなるとはこういうことか。

 上神だって、感情なんかひとつも持っていないように振る舞っているくせに。上神にとっての感情とは「封印したもの」であって、「取り戻せないもの」ではないからなのだろう。いつでも人間に戻れると思い込んでいる。
 けれどそれは間違いだ。千ヶ崎の死体を見ても動じず、オレだけを確実に生かそうと動いたこと。彼女の死を告げられても揺れもしない睫毛と声。彼はとっくに感情を手放してしまっている。それに気付いていないだけ、手の届くところに置いてあるつもりになっているだけだ。きっともう二度とそれらを取り戻すことは叶わないだろう。ああ本当にばかなおとこだと、目を伏せる。瞼の裏でまたあずさの首が飛ぶ。血が跳ねる。

 

 ああ、なぜだかオレは、もう御免だと思っていた。もう楽しく異能を使えないかもしれない。それでもオレは今まで通り生きるしかない。そうしなければ、――上神がきっと壊れる。例えばオレに倫理観なんてものが芽生えて、優しさもついてきたとしよう。それで上神以外の人間を愛したらどうなるか。上神はもう生きる理由を全て失い、そうしていつかにオレに乞うた生きていたいという感情すら、手放してしまうのだ。

 ああどうして、オレが上神の面倒なんか見なきゃならないんだ。そうだよ、そんなの本当は分かってる。千ヶ崎を仲間と認めたように。オレを哀れむ上神に腹が立ったように。オレの感情ひとつひとつに喜んでみせる上神が、どうしようもなく目障りで、どうしようもなく、そう、どうしようもなく、その松葉色のひとみに悲しみが浮かぶさまを、見たくないと思っている。それが見たくて甚振り続けてきたはずなのに、気がつけばこの有様だ。
 だからオレは動揺している。上神は勘違いしているだろうが、生憎オレはまだ、死者に思いを馳せて憂鬱になれるほど、優しい人間じゃない。いま生きてそこに、オレのすぐそばにいるキミへの思いに動揺しているんだ。自分は救いようもないばかだと。
 そうだ、オレも。朱に交わってしまった、ばかなおとこだ。

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