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初めこそ彼を極悪非道な殺人鬼、そう思いはしましたけれど、そんなのはひとめ見たその一瞬だけの話でした。纏う気配はスラムの殺気を濃縮したようで、その灰の瞳だって、あのとき家を襲った犯罪者にすこし似ていました。
けれど彼は言ったのです。「キミ、名前は」と。その声に敵意も愉快さもなかったこと、それがどうしてなのか、今になっても分かりません。
それでも私は、ながいながい荒んで孤独な生活のすえ、鏡見に兄の面影を見たのです。
異専に潜入すると決まった数日後のことでした。あのいけすかない情報屋が、墓参りを済ませたらどうかと、気安くも提案してきたのです。曰く、
「警察組織に入りその一員になるなら、動向が逐一監視される。それを了承してこそ、異能であれど警官になれるということだ。しばらくは会えなくなる」
身元を特定されては困るという話でした。最もですが、私は情報屋という生き物が嫌いです。己の利益のためにひとの秘密を売って歩く、口の軽いひとたち。勿論、上神が私にまでおかしな同情を軽くでも抱いていること、それから鏡見にも不可解な、好意ともつかない馴れ合いの精神が生まれていることも、知ってはいました。それゆえ私は鏡見に何度も、上神を信用するなと言って聞かせましたし、私の言葉に耳を貸さない「兄の代わり」にも拗ねるような気持ちがあったので、上神の望み通り、墓参りに鏡見を連れていくことにしました。ふたつ返事で頷いた鏡見に、上神は「勝手な行動は困る」と引き止めようとしていましたが、私が腕を引っ張れば、あとはよろしくと、鏡見が上神にへらりと笑いました。それもまた、私はあまり面白くありませんでしたが、私を選んだだけ良しとしました。
墓、つまり市街地へ抜けてしまえば、鏡見の顔や特徴が、あまり知られてはいません。フードを深くかぶってさえいればほとんど気付かれないのです。スラム市街地間で、警察同士情報の共有があまりされていないのでしょう。情けない国です。
「あずさ、潜入なんてさ、ひとりで平気?」
道中、鏡見がそんなことを話しかけてきました。悪戯っ子のような、いじわるな笑みでです。わたしはひとりで生きてきた時間がきっと人より長くはないのでしょうけれど、あの数日、あるいは数週間が、とてつもなく長いものに感じられていましたから、多少は寂しがりであろう自覚はあるし、私よりずっとひとりが平気で楽しく過ごしてきた鏡見には余計そう見えるのかもしれません。それでも私は復讐のためならなんだってする人間で、それこそキライな組織とはいえ入り込むことに何ら不安も孤独感もありません。鏡見はそのくらい分かっていますから、だからこれは、そういういじわるなのです。
「そうですね、少し寂しいかもしれません」
だから私もそう返しました。悪戯っ子のように笑ってです。
「歳の近い女の子と、お兄さんがいる予定なんでしょ。女の子とは仲良くなれるといいね~」
それは、上神が盗んできた情報でした。鏡見は私がその男を嫌っていると、やはり知っているくせに、時々こういうことを言います。
もう返事などしてやるものかと、ふいと顔をそらして、つかつかヒールを鳴らし兄のもとまで歩みを速めました。
そのときです。
「なれなかったら、いつでも帰っておいで」
後ろから聞こえた、まるで――いいえ、これは兄の真似なのです。私が兄の話を彼によく聞かせたばっかりに。振り返れば、やっぱり鏡見は、悪戯っ子のように笑っていました。
私は視界が確かに滲み出したことに気付いて、慌てて顔を前に戻しました。鏡見は…なぜだかは分かりませんが、私の頭が復讐やなすべきことでたくさんになっているとき、不意にこういういじわるで私を安心させるような真似をして、愉快そうにします。意味は、よく分かりません。いつもは自分が派手に暴れられること、それに人々が驚いたり苦しんだりするさまを見るのが好きで、そのついでで人を殺しているようなひとなのに。
鏡見は初めからそうでした。何度思い返しても、あそこで私を殺さなかった理由は分からないし、飼い慣らして懐いたところを、と考えるような、まどろっこしくて賢いひとでもありません。
兄とは違います。兄は、賢いひとでしたから。
念のためと暗い時間になってしまいましたが、兄に会いました。あずさと掘られたその墓に。鏡見はなぜだかすこしばかり私から距離をおいて、兄を見つめる私を眺めて、何も言いません。別に見られたって構わないのですが、彼なりの気遣いなのでしょう。鏡見は賢くありませんが、ばかで幼稚でもありません。
私がこの名を使う理由くらいきっともう知っているし、出会ったときからそれが本名でないことくらい、分かっていたでしょうから。
私も兄の前で、なんにも言えませんでした。