top of page

#37 07/08

 息を切らしながら、その事務所へ駆け込んだ。部屋に間違いがないことを確認し、息を整える。深く青い制服に乱れがないかざっと自分の姿を見下ろして、これをひとりで纏う、背負う意味を、強く胸に抱く。
 軽く握った拳で、その扉を叩いた。

「あら、異専?なにかあったの?」

 情報屋であるという彼女、渚ナツキは、彼がのこしたファイルに示された通り、訪問者が警官であろうとぱちりまばたくばかりで、

「…あった、みたいね。中へどうぞ」

 躊躇いもなく、わたしを事務所へ招き入れた。

 本来情報屋とは、誰しもに煙たがられる職業である。
 単に異能くらいしか就かない仕事であるから印象が悪い、ということもあるが、同じ異能持ちの中でも、彼らに容易く秘密を暴かれることを嫌う者は多い。当然だ、手の内を把握されては戦いも不利になるし、その詳細を売られようものならどんどん首が回らなくなる。それ以前に、過去に国民を大混乱に陥れたことから現在は違法とされている職業で、つまり私にとって彼女は捕らえるべき対象なのだけれど、捕らえるべきかの見極めは難しいらしい。探偵の真似事のように、スラムを迂闊に歩けもしない一般人の遣いや護衛などを主な仕事とする人たちもいて、そういう無害な、のこされたファイル曰く市民に好かれている渚ナツキのような情報屋は捕らえるべきでないと、接触するにあたっての注意まで、そこには書かれていた。
 わたしはスラムへ来てからの暮らしが数ヶ月とあまりに短い。ここで生まれここで生き、どころか落ち着くとさえ言い切る彼がそう勧めるならば、わたしにはそれを無視する道理はない。

「紅茶を淹れてあげたいところなのだけど…今のあなたには悠長かしら」
「わたしは神田いおり。あなたを信頼できる情報屋と見込んで、折り入って依頼がある」
「それは…警察として?」

 途端、彼女が少し困ったような顔をしたものだから、つられてわたしも困惑した。
 国からの依頼なら確実に報酬が支払われるだろうし、今後にも繋がるいい機会だと、勝手にそんな風に想像していたけれど――と、そこまで考えはっと思い至ったとき、渚ナツキは眉尻を下げたまま、ゆるやかに口を開く。

「協力したいのは山々よ。けれど内容によるし、断ったら私はお縄、なのでしょう」

 そうだ。国が、飼えない異能を野に放つわけがない。警察として依頼をするなら、彼女には拒否権など、実際には。それに支払われるであろう報酬だって適切かどうかは分からないし、交渉の余地もないだろう。
 彼に世界のことを聞いていたとはいえ、自身の体験ではない。本当に知ったのはつい最近で、まだ身についていないのだ、この世界での生き方が。あまりにも短慮がすぎた発言だ、脅していたつもりではないと弁解しようとして、詰まる。口下手、とよく彼にも言われていたわたしは、気持ちを言葉で伝えるのが苦手らしかった。母も、彼女も、言えないわたしを優しく笑ってみつめるばかりだったけれど。
 わたしの焦った表情から、渚ナツキもまた、なにかを汲んでくれたのかもしれない。彼女はにこりと満面の、けれどしずかな笑みをうかべる。

「ごめんなさい、意地悪だったかしら。とにかく、あなたのお話を聞きたいわ」
「鏡見を、鏡見四季を確保したい」

 尋ねられた、瞬間だった。弁解も渦巻く思いも、今までのすべてが吹き飛んで、力強くそう言えた。

 

 彼が。帰ってこない椎葉がのこしていたファイルには、様々な情報が連なっていた。中途半端に放棄された報告書や始末書などが乱雑に挟まっては放られていたそれらとは別に、デスクの引き出しの奥、やはり乱雑に銃弾や文房具が散らばる下に保管されていたファイル。その表紙には、「神田」と。
 職場ではパソコンどころか紙とすら向き合わず、署長に書類の提出をせっつかれてばかりいたくせ、まともな、手書きではない書類が三枚、そこには挟んであった。もちろん鍵が、といっても数字を合わせるだけの古いものではあったがかけられていて、わたしにはその数字がすぐに分かった。
 わたしにしか読んでほしくないものたち。0502といれると、果たして、その鍵はカチリと鳴った。

 初めは彼の行方の手がかりになればと思って触れた物だった。鍵をかけるくらいだから、わたしの仕事ぶりを母へ書き連ねたものかもしれないとも思ったけれど。実際は真逆だ。
 真っ先に書かれていたのは、ひなのことだった。
 彼女の本名、年齢、家族構成、彼らを亡くした原因と、鏡見一派の内通者であること。それらをわたしに宛てていた。

 それを、目にしたとき。初めは滑って意味が理解できなかった。できる、わけがなかった。ひなが国を恨んでいること、わたしたちの情報を鏡見に流していたこと。少しずつ何度もその無機質な文字の列をなぞって意味を理解するにつれ、指先は痺れて、震えた。
 ああ。どうして彼女は。彼女の本当の気持ちを、きっとわたしだけが知っているのに。どうして、やはり、守れなかった。

 震える手でページをめくる。そこには渚ナツキという情報屋の名前と、いざというときは彼女を頼るようにという――遺書だ、おそらくは。それが、たった一枚。
 紙の半分をなんとか頑張ったけど埋まりませんでした。そんな適当な余白とらしくない綺麗な活字が、ぺらぺらとした安いそれに、並ぶばかりだった。

 だからわたしは決めたのだ。
 椎葉がさいごに教えてくれたこと、それだけを頼りに、あとは自分の頭で考えなければならなくて。鏡見を捕らえること、それをひなが喜ぶかなんて分からないけれど、でも、彼女が本当は平穏のなかで生きたかったとするならば、そのために国に銃口を向けたとするならば。それを変えてみせるのはわたしだ。わたし以外、一体誰が彼女の悲しみを繰り返さずにいられるというのだろう。いたとしたって譲らない。
 理不尽を、この世からひとつでも減らすこと。彼女の意思すらもう分からない、ただのわたしのわがまま。もう彼女が世界のどこにもいなくなって二度と現れはしなくとも、このわがままだけはまかり通してみせる。

 けれど、ひとりでは。あの海でのことの通り、ひとりでがむしゃらなだけでは、逆に大切なものを傷つけてしまいかねない。今のわたしにそれがなくても、誰しもが誰かにとっては唯一無二の存在なのだと、母は教えてくれたのだ。だから椎葉は、渚ナツキを頼れとわたしにのこしたのだ。

 

 強くなった声に、しかし彼女はやはり、一度まばたくだけだった。

「あの鏡見を?」
「そう、わたしが、やらなければならないこと。けれどわたしひとりでは、余計なものまで傷つけてしまうかも、しれないから」
「…どうしてそんなに焦っているの?今のあなたは、すこし危なっかしく見えるのだけど」
「わたしの友達が、…たいせつな家族が、きっとずっと望んでいたことかも、しれない、真逆のことをしようとしているのかもしれないけど、…でも、ひとりではだめだと言ったひとが、帰ってこなくて、けれどわたしに、あなたを頼れとのこしていたから、だから」
「そう、…そのひとは優しいひとだったのね。あなたを思ってそんなことを」
「どうして!」

 どうしてそんなことを言うの。気付けばほとんど叫んでいた。確かに滲む視界で彼女を見上げる。
 まるでもう本当に二度と、彼が帰ってこないみたいに。

「ごめんなさい、…明日なんて、本当にくるのか分からないじゃない。そういうとき、自分ではなくあなたのために言葉をのこすなんて、強くて優しいひとなのだと思って」

 すこしも動揺する素振りを見せはしなかった渚ナツキは、落とした声と苦しそうな顔でそう言うと、自ら淹れた紅茶を一口啜る。
 なんとなく、分かった気がした。椎葉がこの女性を頼れと、そうのこした理由。カップを静かに机に戻すと、彼女は再び首を開いた。

「ぜひ、あなたの力にならせてほしいわ」

 

「これで三日…最近はあまり現れないわね」

 昨日も空振りに終わり、合流したのちそうぼやいていたナツキが請け負った仕事、それは今までと違い警察の手伝いだったけれど、きっと彼女にとっては今までと同じ、誰かへの余計なお節介なのだろう。いつもと変わらない表情と緊張感から、なんとなく窺えた。

 鏡見四季の確保、なんて大仰な仕事を持ちかけてきたという少女との打ち合わせの末、神出鬼没な鏡見を捕らえるには、スラムに散らばり定点で待ち伏せるしかない、という結論に至った。相手があれだけ有名な殺人犯で、こんな単純な方法をとるのなら、やろうと思えばきっといつでも、包囲網は敷けたのだろう。けれど国の気はそれほど長くなく、かつこちらに向いてもいないのだ。

 鏡見の出現は分かりやすい。いつでも派手で大げさだから、スラムのどこにいたって分かる。問題は男の足止めだ。当然ナツキの助手である自分も戦力のひとつとして数えられているわけだが、情けなくもいまだ異能は安定せず、お荷物である状態だった。俺のすぐそば、二人がすぐには駆けつけられない地点に鏡見が現れることを、ナツキはひどく心配していた。
 俺はやはり、その気遣いにさえ、ぴんときていない。きっと自分は鏡見四季の確保に大して関わりはしないのだろうと、また無責任に、漠然と思っていた。自分の身に何かが降りかかるという事態をはっきりと想像できず、またそれで命を落とすかもしれないことさえ、人のことのようなのだ。

bottom of page