top of page

#5 04/20

 赤間千夏はひどく自由奔放である。

「レイ、麦茶くれ」
「貴様ふてぶてしすぎるだろう」

 俺と双子の兄が借りているマンション、その自室でこんなやりとりがされるのは、もはや日常だ。赤間は、ソファに深く腰掛けて右足を左の太ももに乗せる、というひどく偉そうな格好で、空になったコップをこちらに差し出している。いつからだったか、ひどく馴染んでしまったクマを作った目をじとりとさせ睨むものの、結局赤間に口では勝てないことを知っている。最終的にはいつも自分が折れて、しぶしぶとでも要求を飲んでしまうのだった。
 カーペットでは赤間が知らぬ間に拾って誑し込んでいた例の子供、吉川が、うつ伏せになって漫画雑誌を読んでいる。雑誌の左側にはポテトチップスの袋を広げ、右側にはコップの半分まで注がれた麦茶という完全装備だ。足をゆらゆらと揺らしながら、時折くすくす笑っている。
 三人で過ごす昼下がりはひどく緩んで、どこか投げやりだ。

「あかまあ、おれお腹すいた」
「ああ、もうそんな時間か…やっべ、」
「どうした」

 吉川に強請られた赤間は、一度ポケットに手を入れたあと、さっと顔を青くして呟いた。

「…財布、会議室に忘れてきた」

 無常。それはその男にとっては、ひどく絶望的な出来事である。

「…それは可哀想なことだな」
「いってらっしゃい」
「お前ら薄情すぎるだろふざけんな」

 俺は赤間からすっと目を逸らし、吉川は漫画雑誌に目を戻す。しかしそれらはかの赤間千夏には許されない。ガンと机に肘をついて身を乗り出すと、童顔であるくせそこそこの圧をかけて俺を睨む。

 会議室。そこに入るには自分でさえも少々の度胸を試されるものがあった。正しくはその手前、会議室に向かうにあたり避けて通れないオフィスにこそ、赤間千夏限定の恐怖が鎮座しているのである。

「きっかわあ行ってきてくれよ」
「ヤだよーおれいま忙しいもん」
「じゃレイ行って来い」
「それが人にものを頼む態度か」
「せめて誰かついてこいよなァ!!」

 似ていたな、似てたよねぇ。
 子供と密かに目配せしたものの、口に出せば最後。災いのもととはよく言ったものである。

 

 案の定ではあるが。結果として俺も吉川も連れられ、戻ってきたのは今朝立ち寄ったばかりの本社。20階建てという市街地でもひときわ目立つそこの18階にこそ目的地はある。暗殺部隊しか立ち入れないフロアの奥にある会議室。
 時刻は13時過ぎ、確実に「それ」がいる時間帯であることを知りながら、赤間はいないでくれと願わずにはいられないのだろう。エレベーターの中、いつも以上にやたらと回る口で、上滑りながらも無理やり会話を繋げたものの、その階が近付くとすっかり俯いて黙り込んだ。もはや誰にも発言権はなく、重だるい空気の中、音を殺して溜め息をこぼした。

 間抜けな音を鳴らしてエレベーターは目的の18階に止まる。しかし赤間はオフィスの前に作業室へ乗り込んだ。ほとんど叩き付けるようにゴンゴンと拳の側面でノックを2回したものの、返事は待たず無遠慮にそのドアを開く。おいおい、と一応呆れた声を出しても既に遅い。

「うわっびっ…くりした、赤間さんスか」
「なあちょっと聞きたいことあんだけど」

 その部屋は常に暗く、山のように詰め込まれたディスプレイだけが、目に痛いほど青く光っている。
 その中心にいるのは橘アキという男だった。空色の垂れ目を大きく開きながら、椅子をくるりと回転させ振り返る。暗殺部隊という枠の中で情報管理を任されているこの新人は、最低限の訓練すら受けていない非戦闘要員だ。24時間態勢を余儀なくされている少年はこの作業室に寝泊りしていて、ターゲットやあちこちの防犯カメラの監視に始まり、各企業の動向の把握、つまり暗殺やら開発やらの情報を盗むことが仕事である。ついでに人物に関しても言うならば、とてつもない怖いもの知らずで、胡散臭いばかりの少年だ。

「なんスか、今目ぇ離せないんすけどー」
「別にこっち見なくていいから。…あの人、今日どうだ?」
「あの人?…ああ、ボスすか?」
「そう」

 ボス。橘がそう言った瞬間、赤間の肩が少しだけ、しかし確実に強張った。吉川が不安げにそれを見上げている。

 この男ががボス、と、そう呼ぶかの男こそ、赤間が世界で唯一恐怖する人物なのである。

 勿論この組織の"ボス"は、正しく言うならば赤間千秋に他ならない。比喩として使われるそれは、しかし誰が聞いても間違いなくその人を思い浮かべる、的確な表現だった。忙しなく働く千秋に代わり、この暗殺部隊なる組織を取り纏める代表を務め、仕事を振り分け、報告書に目を通し、隊員の全てを把握する人物。絶対的な存在である、ボス。

「ボスはー、今日は」
「…おう」
「死ぬほど機嫌悪いっすね」
「分かった帰ろう、レイ、財布だけ取って来い」
「俺だって小言を言われるのはご免だぞ」

 それに相対する前に挫けたらしい赤間はやはり、ふざけたことを言う。恐怖心こそないがそれでもあの男に絡まれるのは面倒で、機嫌が悪いというのなら、なおのこと触りたくないのは誰でも同じなのである。

 集中できないから、もういいっすか。橘にそう言われ、赤間は苦い顔をして作業室を出ると、どうしたものかと腕を組んだ。
 作業室のある廊下の角を曲がり、突き当たりにあるドアの前。とりあえずそこまで歩いて来ただけ、赤間にしてみれば褒めてほしいことだろう。この向こうにいる、確実にいる、しかも機嫌が悪いときた。繰り返すが、会議室には"ボス"が不機嫌に仕事をしているなかオフィスを横切り、奥のドアを開かなければ入れないのだ。その男は暗殺の仕事が入っていれば日暮れ前に一度帰宅するが、そうでなければ日付が変わる頃になってにやっと帰るうえ、基本的にこの組織は仕事内容やその有無を、他の隊員と共有しない。禁止されている、というわけでもなく、知ろうと思えば本人に聞くことができるが、共有する必要がないから公開されていないわけで、加えてそれほどまで他人に興味のある人間もいないのだ。今日、"ボス"がどう動くのかを、知る者はひとりもいないのである。ゆえに赤間は今を逃せば最悪明日の朝まで食事がとれないし、"ボス"に仕事がないのなら、無意味に昼を食いっぱぐれることになる。食事を用意してやっている吉川が空腹を訴えるということは、冷蔵庫は空なのだろうし、渚ナツキに集るという手もあろうが、赤間は彼女に頼ることを嫌う。曰く、鬱陶しいらしい。

 散々悩んだ末、赤間は声を潜めて情けない提案をする。

「じゃんけんで負けた奴がとってこい」
「なぜ貴様の不始末に俺が巻き込まれるんだ」
「そうだよーおれだって怒られるのヤだよ」
「お前らは面倒くさいだけだろ?俺は怖いんだよ」
「そんなに怯える理由が分からん、そもそもが従兄弟同士だろう」
「いつ殺されるかわかんねえからに決まってるだろ!」
「そんなことするかなあ」
「ほんとだって!これあの人にやられたんだからな!」

 わざわざ服を捲って赤間が指差したのは、へその左側にある傷跡だった。言われてみればかつてにそんなことを報告された記憶があるような、と思ったが、その際に抵抗すらしなかったというのもおかしな話で。違和感はあれど細かい事情を今更聞くつもりもないし、赤間が聞かれて正直に話すとも思えない。初めて見るのであろう吉川は眉を下げて、痛そう、と呟いた。
 当時のことを思い出すと今でもやはり恐怖はあるのだろう。赤間は肩を竦める。

「子供の頃の話だろう」
「だからこそだろ、トラウマなんだよ…!」
「なんでそんなことされちゃったの?」
「いやそれが記憶ぐちゃぐちゃでさ、でもそれ以来なんつーか、」

「うるッせェな仕事してンだよこっちは、用があンならさっさと済ませて帰れバカども」

 ガン。
 やはりはぐらかすくせに、なんて考えていると、へこんで弾け飛ぶのではと思うような勢いでドアが蹴られたのち、開かれもしないそれの向こうからひどく低い声が響いた。一斉に黙り込み、男の気配が遠ざかった頃その沈黙を破ったのは、苦笑いの吉川だった。

「…機嫌、悪いね」
「……帰るか」

 完全に恐怖が勝った赤間の指示により、結局何もせず本社を後にした。何しに来たんだという静かな後悔に包まれながら、やはり変わった関係だと、内心首を傾げる。
 あの男は誰にだって威圧的ではあるが、赤間に対しては格別に攻撃的だ。それもでたらめで可愛いものではなく、的確な圧のかけ方だからこそ、この傍若無人な跡取りを、震えあがらせることができるのだろうけれど。
 それにしたって、損な役回りだ。俺ならば御免である。
 

bottom of page